三重県 鳥羽市 神島町の漁村景観
~地域の概況と基礎情報~
<神島の立地>
神島は、面積0.76km^2 周囲3.9km の小さな離島である。
三重県と愛知県の間(鳥羽から15km、伊良湖から4km)に位置しており、島の東側には伊勢湾への出入口である伊良湖水道が通っている。
気候は比較的温暖であるが、外洋に面しているため波風は強い。潮の巻き上げがあること、土地が痩せていることなどから農業には不利な自然条件にある。
地形的には中央構造線の外帯に位置する。それゆえ島周辺の海には岩礁がすこぶる多く遠浅の海となっている。
それは一方で島民に好漁場を与えつつも、神島周辺を航海の難所にしてきた。
鳥羽藩の流刑地であり、海難事故の多い地域であった。そのため島民は他地域の漁師と比べ高い操船技術を持っていたようだ。
神島は漁業に大きく依存した典型的な漁村集落である。
島内だけでは物資が不足するため昔から周辺地域との交易は盛んに行われてきたようだ。
f.1: 神島の位置(google_map) |
<集落の立地>
神島は面積が狭いいうえに、全体的に山がちな地形である。集落の立地は土地の確保、水の確保、波風回避が鍵となったようだ。
下図を見ると居住に適していると思われる場所は北、西、南の3つの谷である。
居住可能スペースは南>西>北、湧水量は南>北>西、波風回避は北>西>南の順に優れている。
現在は北側斜面に沿うように密集して住宅が建てられている。
言い伝えによると、かつては西の谷に集落が立地していたようで地名にもその名残が残っている(cf.五里(=故里)の浜など)。
1200~1300s頃に北の谷に微地形に沿うようにして3つの部落を持つ集落が立地したらしい。その後、人口が増えため西側に部落が付け加わり現在のようになった。
f.2: 神島の地形(dem_10mより作成) | f.3: 神島空中写真(2008年度gmap) |
<神島の成り立ち>
神島は典型的な漁村集落である。
ほとんどの人が漁業従事者であった。また同時に海運業に携わる者も多かった。
一時期、海運業が盛り上がりを見せるが、他地域に業者が移り現在はまた元の漁村に戻っている。
神島の歴史は海運業の隆盛の前中後で以下のように3つに時代区分できると言われている。
- period.1 (~1900年頃): 大元(網元)を中心とした階層的な漁業単一経済.
- period.2 (1900年頃~1960年頃): 大元の没落と漁業組合の成立, 海運業の代頭.
- period.3 (1960年頃~現在): 海運業の衰退と漁業単一経済への回帰.
period.1 | period.2 | period.3 |
●Period.1 (~1900年頃): 大元(網元)を中心とした階層的な漁業単一経済.
大元と呼ばれる網元が漁業の生産、加工、流通、運輸を一手に担っていた。
鯛やエビなどは個人経営だったが、鰯網は大元が経営した。
また大元は仲買人としての役割を持ち、獲れた海産物を伊勢湾内の至る所に出荷していたようだ。
その副業的な位置づけで海運業(廻船)も兼任していたらしい。
三河(愛知)と紀州(和歌山)の間で"芋舟"(サツマイモ~木材・蜜柑の輸送)がはしっていた記録が残っている。
季節によって三河や知多、熊野などへも漁に行った。漁帰りに伊勢の問屋街で半年分の米や雑貨などをまとめ買いしてくる"伊勢買"という習慣があった。
漁閑期には女性は伊勢の方へ農作業に、男性は伊勢湾周辺地域で雇われ漁師をしていた。
住居は潮・風対策のため総じて瓦屋根で、100軒ほどが密集して建っていた。食料、燃料などは慢性的に不足していた。
島内の集落以外の場所には段々畑が広がり、畑に適さない土地には松林が広がっていたようである。
農地の1/3は大元が所有しており、地主小作関係があった。それでも島内では食料生産が追い付かず、伊勢から多くを輸入していたようである。
松は普段は伐らず、松葉や下草をかき集めて燃料にしていた。
f.4: 神島の絵図(鳥羽市史) | f.5: 神島の集落風景(参海雑誌) |
●Period.2 (1900年頃~1960年頃): 大元の没落と漁業組合の成立, 海運業の代頭.
漁獲高の減少により大元が没落、機能が分散した。
生産-個人経営、流通-漁業組合(1893成立)、加工-三重の専門業者、海運-商船組合(1912)、農地-個人小規模所有。
海産物は基本的に漁協が一括で購入した後、伊勢、鳥羽、あるいは三河、知多からの仲買人に売っていた。
この頃タコの漁獲漁が増え、名古屋、東京、北陸などへ出荷されていた。
日用品は変わらず伊勢や鳥羽から輸入していたらしい。水は足りなくなると大型船で鳥羽から輸送してもらっていた。
廻船業が次第に専業化、組織化していく。神島の漁師は操船技術が高く、船主とともに乗組員となる者も多かった。
海運業の輸送範囲は船の性能とともに急激に広がり、伊勢湾内から全国へと活躍の場を広げていく。
また同時に所得も上がったようである。神島の人口は明治以後急激に増加し1955年に最大1,360人になった。
人工の増加に伴って住宅は海に近い平地部分に収まらず、次第に斜面地へと増えていった。
平地部分にある昔ながらの住宅は、三州瓦葺き(愛知から輸入していた安価な赤瓦)、平屋建て、樋なしの家が多かったのに対して、
斜面地に建つ新しい住宅は瓦葺き、2階建て、地下室、バルコニーを持つ家が多かった。
平地内は住宅が密集していて余分なスペースがなかったため、網屋・納屋は住宅とは別に斜面上の畑地付近に建てていた。
この頃から次第に平地の家が建て替えられ、地下室、バルコニー、樋ありの家になっていったようである。
住宅の上には段々畑が広がり、さらに上には松林が広がっていた。この頃もまだ松葉、下草を燃料としており山はきれいだった。
f.6: period.2 の集落構造の断面模式図。浜から山まで無駄なく利用されている。 住宅が次第に斜面地へと延びつつある。 |
●Period.3 (1960年頃~現在): 海運業の衰退と漁業単一経済への回帰.
海運業の競争が激しくなり船の大型化が進んだ。結果、鳥羽や名古屋へ海運業の拠点が移っていった。
それに伴って人も移住した。この頃神島の世帯の約半数にあたる200軒が鳥羽方面へ移住したらしい。
この頃から人口は徐々に減少し続けている。ほとんどの若者は高校で島外に出た後、名古屋や東京で就職し、戻って来ない。
高齢化が甚だしく、現在人口の4割以上が高齢者である。
人口減少に伴って斜面から平地へと住宅地が縮小してきた。住宅はほとんどが瓦葺き、多階建て、地下室、瓦葺きの庇、である。
地下室の普及に伴い網屋・納屋も必要なくなった。現在では斜面地の住宅や網谷・納屋は空家となっているところが多い。
水道(1954)、電気(1964)、ガスなどのインフラ充実に伴い生活が一変。山は下草が生え藪になり、共同体意識も薄れてきているようだ。
f.7: period.3 の集落構造の断面模式図。 畑、山林は荒廃しあまり利用されなくなってきている。 浜にも道路ができ海が見える場所も減った。また集落も縮小してきている。 |
f.8: 高齢者割合が40%超。今後も進んでいく模様。 |
●period毎の交易図
period.1 | period.2 | period.3 |
<名前の由来>
神島の名前の由来は下のように諸説ある。どの説が正しいかは定かではないが、様々な主体から重要視されていたことが伺える。
- 伊勢神宮を守る沖島であった。
- 鳥羽の人にとっての蓬莱山(神の住む島)であった。
- 島の形が甕を逆にしたようだったの。甕島がなまって神島になった。
- 航海の際の重要な目印であったため自然崇拝された。
- 江戸時代に神官が流罪で流された。
~景観の特徴~
外洋に面した極小面積の島に成り立つ漁村集落
<典型的な漁村集落の空間構造>
神島の集落構造を断面で捉えると、海---浜---公的機関・商店---住居---社寺---畑---山林、となっている。
これは漁業中心の集落に良くみられる、海---山への宗教軸を中心とした構造である。
また中山は神島の空間構造の模式図(下図)を描いているが、これも良く見る構造である。これは3つの大きな祭(ゲーター祭、ゴクアゲ、ヤリマショ舟)における空間利用を基にしている。
平面的にも空間構造は漁村集落の典型的なものであるといえる。
ただその空間が非常に密であることは神島の特徴であるといえる。またシマのなかの集落が3つの部落(セコ)に分かれていることも非常に興味深い。これについては次節で触れる。
f.9: 1955~1965頃 縦の集落構造が見受けられる (神島中学校提供) |
ゲーター祭 | ヤリマショ舟 | ゴクアゲ | 空間構造模式図 |
ゲーター祭
ゲーター祭は12/31の夜から1月1日の明け方に行われる祭りである。南北朝時代、天に二王あるときには禍が絶えない、ということから真の天使への忠誠を示すために始まったという説が有力。 日輪を模ったアワと呼ばれる輪を作り、これを持って下図のように練り歩く。浜まで着くと、男衆は竹でアワを突き上げ合い、その後落とす。 アワはすぐに神社に納められる。浜では続けて初日の出、つまり真の天使の出現を祝う日向の祭が催される。
ゴクアゲ
ゴクアゲは海女漁の開始日である6/11に行われる祭りである。その年の豊漁と安全を祈願して行われる。神島周辺にある3つの小さな岩礁を廻り御幣を立てることで、海女漁のための磯に結界を張る。
ヤリマショ舟
ヤリマショ舟は12/8に行われるコトオサメの祭りである。朝から島の隠居衆が舟形を作る。東から西へ浜を横断する途中、住民は身体をお祓いしたカヤを舟形の中へ入れていく。 その後、カヤの積まれた舟形は船に乗って海へと出ていく。外洋との接点である伊良湖水道脇で舟形を潮流に流す。 この舟形は出雲へ向かうと言われており、その年のケガレを島の外に遣ってしまう。
<道路によって区分された3部落(セコ)を持つ集落内部構造>
前節の模式図にあったように神島の集落は3つのセコに分かれている。
このセコはそれぞれ禊ぎ場、塚、寝屋(青年団支所)、神社、寺を持っており、独立した3つのユニットであったと捉えられる。祭りの空間利用からも3つのセコを平等に扱う意識が見られる。
このユニットの境界は集落の中の比較的幅の広い2つの道である。この2つの道はどちらも谷道である。
つまり集落は道の両側に広がるのではなく、道と道の間の尾根に広がっている。このような構造はあまり類を見ない。
2つの道のうち南側のものはかつて小川が流れていた記録があり、戦後しばらくの間も洗濯場、排水路として利用されていた。おそらく東側の道にも昔は流れがあったと思われる。
道をユニットの境界とする空間構造は貴重な水を共同利用する仕組みではなかったかと推察される。
しかし何故ユニット数が3つになったか。また間の道は具体的にどのような位置づけだったのかについては不明である。実際、水路や井戸は共同利用されていた。セコごとの利用場所の割り振りはなく、基本的に家から最も近い場所を利用していたらしい。
f.10: 1979住宅地図上でのセコの境界。 セコの境界は2つのやや広い道である。これらは谷道でありかつて水路があったと思われる。 集落が尾根上に広がっている点が興味深い。 |
f.11: 祭事関連の施設位置および1957年の水路・井戸の位置。 青年団支所も各セコごとにある。ユニット毎浜から山林までの縦の構造を持っている。 |
f.12: 中セコと南セコの間の道。 現在もメインストリートになっている。 |
f.13: 東セコと中セコの間の道。 現在は道筋も少し変わり上の方では藪、空家が目立つ。 |
<狭い敷地と潮風に対応した住宅構造>
住宅は敷地の狭さゆえ基本的に縦方向に延びてきた。屋根裏や地下室はほとんどの家にある。狭い道の両側にやや高い建物が密集しているため圧迫感がある。
バルコニーを持つ家も多く、物干し竿が印象的である。瓦は三州瓦葺きがまだかなりの数あり、集落を上から眺めると赤が広がる。潮風を避けるため窓・玄関にも三州瓦葺きの庇および雨戸があることが多い。
開口部、玄関は山側を向いていることが多い。これは特に家が疎である斜面地において顕著である。
密集部では住宅の密集、高層化により潮風の影響が緩和されるようで道に従って玄関が付いているところが多い。
f.14: 神島 崖上から集落を望む | f.15: 街路は細く、圧迫感が強い | f.16: 神島らしい家 |
~景観と生活の関わり~
<景観の成立要因>
一般に自然条件が厳しいほど集落は密集する傾向にある。神島は外洋に面しており、厳しい自然条件にありながら、それが逆に漁をするうえでの利点となっている。
おそらくかつては食料・燃料が行きわたる程度の人口しか居住しておらず、島内では人-畑-山林の間で上手く資源が循環していたのではないかと思われる。
その後人口が増えたときも農地・林地を確保し循環を維持していくために、宅地は水平方向ではなく垂直方向に広がっていったと推察される。
島の生活の基本は漁業であり、食料・燃料はかなりの部分を周辺地域との交易に頼っていたようだが、島内で農地・林地を持つことも重要だったと思われる。
その理由は、航海の難所で回りの地域に出かけることに危険が伴ったから、それゆえある一定期間を凌ぎうる食料・燃料を自給する必要があったからと推察する。
また交渉の主導権を仲買いや仲卸に握られてしまう恐れもあったことも理由の一つとして挙げられるだろう。
島外との交易にも依存しつつも、島内では土地利用がそれぞれの適地に目いっぱい広がっている。
この高密な土地利用は形態的にも集落内の協同生活を助長していたようである。
f.17: 循環の模式図 | f.18 1958 土地利用 ほぼ全域が基本的な生活のために利用されていることが分かる。 |
<景観の変化と現状>
最も大きく島の生活を変えたのは水(1954;島内簡易水道, 1992;本土ダムから送水)・電気(1964;神島発電所, 2005;本土からの送電)の整備である。 これにより島内の循環がなくなり、農地の縮小、林地の藪化が進行した。また1930年代ころから次第に港が整備されるなかで、浜の景観も変化した。 集落から海を視認できる場所は減少し、舟の浜揚げや作業場などもなくなった。資源循環の消失と共同生活の衰退が神島らしい景観を失わせてきたと思われる。
1975_0911 | 1983_1030 | 2008 |
f.19 1955 浜付近の様子(西側から) | f.20 2011 浜付近の様子(北側から) | f.21 赤線;写真から判断した海の見える場所 平地にある集落内からはほとんど海を見ることはできなくなっている。 |
f.22 1963 畑の様子(西側斜面を上空から) | f.23 1957 農地、納屋の分布 (赤枠;農地, 青点;納屋) 広範囲に渡って農地が広がっているのが分かる。 |
f.24 2011 畑の様子(西側斜面を南側の尾根から) |
<これからの課題>
すでに斜面地の農地、山林による高密な土地利用は廃れてしまっており、今後も復活は難しいと思われる。 集落自体に関しては過疎化が進んでいるものの、現時点では漁協を中心に各戸なんとか生計は立てられている。 しかし生産人口の減少が著しいこと、大規模漁業や輸入による海産物の価格低下などから今後の生活は定かではない。 住宅地の景観を保全するためには人口の減少、高齢化を食い止めることが必須である。そのためには一定量のお金を継続して稼げる仕事が必要不可欠だ。 人口的にも設備的にも他漁港に劣る神島が漁業で生計を立てるためには量ではなく質で勝負することが大切だろう。高級料亭と個別契約するなど。 最近、本土の学校を卒業した後、漁師になろうと島に戻る若者も少ないながら出てきているらしい。 本調査では聞かなかったが質重視の漁業をしようという動きがあるのかもしれない。 また漁業を永続させていくために人口規模ひいては経済規模や漁獲量を知ることも大切になってくるだろう。それは今回のようにかつての集落の姿を調べることで推察していけるのではないだろうか。
~参考文献・参考資料・参考URL・ヒアリング調査~
【参考文献】
- 鳥羽市史
- 参海雑志 渡辺崋山(1833)
- 旅 29(1) JTB(1955)
- 専修大学地理学研究会 紀要(5) 神島地域調査 専修大学地理学研究会(1958)
- 三重地理学会報(三重大学学芸学部内)(6) 神島調査概報 三重大学地理教室(1958)
- 郷土志摩(44) 志摩郷土会(1973)
- 歴史地理学 紀要(24) 神島における社会経済構造とその変化 大喜多浦文(1982)
- 旅 64(4) JTB(1990)
- 民俗文化(5) 鳥羽市神島の民俗的空間と時間 中山正典(1993)
- 伊勢湾海運・流通史の研究 村瀬正章(2004)
- 講演記録 志摩国(現鳥羽市・志摩)の津波記録について 村山眸(2005)
【ヒアリング調査 (2011.06/30~07/01)】
- 神島中学校 校長先生
- 鳥羽磯部漁協 神島支所 支所長様
- 宮持 藤原喜代造様
- 鳥羽市市役所 教育委員会 生涯学習課 野村様
【参考資料】
- 統計データ 総務省 統計局http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/eStatTopPortal.do
- 標高データ・空中写真 国土交通省 国土地理院http://www.gsi.go.jp/tizu-kutyu.html
- 住宅地図(1979, 2010) ゼンリン