主幹形(わい化) 開心形
図6 主幹形と開心形のモデル
主幹形では、木が上に伸び、樹高は4mである。列と列との間は3~5mであり、一列の中での木と木の間は3mぐらいである。開心形は中心幹を切り取り、樹形は上と横の方向に伸びる。樹高は4mである。列と列の間は6~8mであり、一列の中での木と木の間は6mぐらいである。
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1-4. その他
春はリンゴの花によりピンクの色が広がり、秋は果実の赤色、黄色が広がる。冬は雪景色のリンゴ畑を見ることができる。このようにリンゴ畑の景観は季節性を持つ。また、岩木山(津軽富士)とリンゴ畑の組み合わせは象徴的な景観となっている。
2. 森林景観を支える背景
2-1. リンゴの生育条件
リンゴは春夏秋冬、四季のはっきりとした温帯地方独特の限られた地域にのみ栽培される果物で、 四季の持つ微妙な温度の変化と太陽の光を十分に吸収して育ったものだけが、甘味・酸味の配分がよくなる。
春の平均気温が5℃以上になるとリンゴは生育を始める。一定期間以上低温にあわなければ休眠が破れない。やがて花を咲かせて実をつける。良好な着色を得るには秋口からの低温が必要で、果実の貯蔵性も冷涼な条件下で高まる。着色の適温は15~20℃である。雨量が比較的少ないことと相まって、病害の発生が少ない。旱魃を受けない限り、降水量は少な目のほうが有利である。気温が高く、日照の多いことが成熟を早める。津軽地域は暖かな夏と冷涼な春秋および厳寒な真冬という気候を持ち、リンゴの栽培に適していると考えられる。
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2-2. リンゴの栽培フロー
1月の終わりから剪定、土壌改良、薬掛け、草刈り、授粉、摘花・摘果を順番に行う。5月からリンゴに袋をかけ、8月から9月までに袋をはき、リンゴを回して色をつける。そして、秋に収穫する。
1月の終わりから3月にかけ、むだにのびた枝や雪の重みでおれた枝などを切りとる作業を行う。土壌改良のために4月中ごろから6月の終わりまでに数回にわけて肥料をまく。春から夏にかけて、リンゴの木の養分をうばう草を刈り、病気や害虫からリンゴを守るために薬もかける。また、授粉、摘花・摘果の作業を行い、確実に実になり、色が良く育つようにする。病気や虫からリンゴを守るためと色づきをよくするため、リンゴに袋をかける。8月から9月までに袋をはき、たくさんの太陽の光が当たるように、果実の回りの葉を取り、リンゴを回して色をつける。そして、秋に収穫する。
こうした栽培フローから、春には花のあるリンゴ畑の景観を、秋には果実が数多く実ったリンゴ畑の景観を楽しめることがわかる。
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2-3. リンゴの剪定方法
生産性向上のため樹形の改良とリンゴ剪定技術の改進を続けてきた。これにより特徴的な樹形が生まれてきた。
今現在は摘果作業や機械の導入のために列状に植えている。また、防風・防雪、作業のしやすさのために樹高を低く、枝を横に伸ばしている。平地では1m高さ以下の枝を切り、傾斜地では2m以下の枝を切るようにしている。こうした剪定方法により、特徴的なテクスチャをもつリンゴ畑ができている。
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2-4. リンゴの定着過程
明治10年頃に政府からリンゴの苗木が配布されることにより、リンゴの栽培が始まった。現在、津軽地域は日本一のリンゴ生産地であり続けている。
2-4-1 明治10年頃
明治政府が繁殖させたリンゴの苗木をモモ、サクランボ、ナシ、ブドウなどの苗木とともに、各府県に均等に3回配布した(1874年、1875年、1876年)。このとき青森県にもリンゴが導入され、県庁の菊地楯衛(旧弘前藩士)が導入されたリンゴの試植を担当した。帰農政策のため、リンゴの試植が士族中心になされ、試植場所は士族の宅地内が多かった(市街地内)。その後、敬業社などの士族結社によりリンゴ園が開園され、消費者は主に弘前周辺の住民であった。
2-4-2 明治20年頃
敬業社などの高率配当に刺激され、土地集積をした水田地主・豪商によりリンゴ園が開園されていった。市街地内では手狭になり、弘前南方の畑地や原野などにリンゴ園を作るようになった。リンゴ生産量が伸び、函館や京浜方面に販路を開拓していった。(1891年上野-青森間が鉄道でつながる。1894年青森-弘前間が開通。)
2-4-3 明治30~40年頃
病虫害激発の危機により、他県では栽培を縮小していった。一方、木洗い・袋かけなどの防除技術で危機を乗り越えた津軽地域は、リンゴの筆頭産地としての地位を確立していった。また、日露戦争による景気上昇を背景に、収益性の高いリンゴの生産量が増加していった。他の畑作物が不適とされる傾斜地においても良品質のリンゴが生産できることから、斜面地の部落有秣場が開発されていった。秣場は病虫害に冒されていない場所であり、部落有地であるために地代が安かった。日照に恵まれた岩木山東南面や西北からの風がさえぎられる西北面で特にリンゴ園が増えていった。
2-4-4 大正期
不作が続き、病虫害への対処などの栽培改善運動が展開され、生産者全体に病虫害防除技術などが浸透していった。技術の集約化、経営の縮小化が志向され、小・零細経営のリンゴ園が増加していった。流通も複雑になり、阪神方面へも販路が拡大していった。
2-4-5 昭和戦前期
大正期の不作後は飛躍的にリンゴ生産量が伸びたが、世界恐慌と昭和農村恐慌のあおりで経営は圧迫された。このころから栽培への機械導入が進んでいき、その後さらに生産が拡大し、インフレとあいまって好況に転換した。戦前まで生産は伸び続けたが、戦時下では主要食糧ではないリンゴへの抑圧政策がとられ、リンゴ生産量が減少した。資材・人手不足によりリンゴ園が壊滅状態になった。
2-4-6 昭和戦後期
昭和22年に「リンゴの唄」が国民的愛唱歌になり、リンゴ生産量は回復し、リンゴブームになった。また、昭和20年には農地改革がなされ、大部分は部落有地である小作園が解放された。昭和30年代からはリンゴの果汁生産やわい化栽培が本格化した。昭和40年代にはそれまで主力品種だった国光の割合が減り、ふじなどが伸びた。一方、プロパンガスなどの普及により薪や木炭の需要が減少し、その供給源であった山々の役割がなくなっていった。そして、国営事業で岩城山麓が開発されるなど、山裾でリンゴ園が開園した。さらに、基盤整備事業などにより高所まで農道が整備され、標高の高いところにリンゴ園がつくられるようになった。また減反政策により平野部の水田がリンゴ園に転換されるようになった。
2-4-7 現状
現在は少子高齢化による担い手の問題などを抱えるも、最大のリンゴの生産地であり続けている。