島根県安来周辺
昔ははげ山シリーズ2 たたら製鉄
1.景観の特徴
- 過去(江戸時代中期)
- はげ山
- 現在
- 天然更新による広葉樹林
- 戦後の植林による針葉樹林
- 手入れがされなくなった事による竹林の侵食
たたら製鉄がおこなわれていた当時ははげ山であったが現在では戦後の造林により植生回復した。そのため戦後造林した針葉樹、天然更新した広葉樹が存在し、そのなかで手入れされなかったことによる竹林の侵食が見られるといった森林景観である。林業技術センターの方の話では森林内に入れば、たたら製鉄の鉄穴流しが行われた森林は他のところと違うことがわかるということ。鉄穴流しの行われた山は形がいびつになっているそうである。しかし鉄穴流しが行われた山は比較的樹木の生長が良い土地(地力が大きい)であったので、植生回復することができた。というわけで現在では樹木が育っているため遠距離から見てもそのことを確認することはできない。
2.景観を支えてきた背景
この地域は古来よりたたら製鉄の栄えたところで、たたら製鉄では砂鉄を原料とし、木炭を大量に使った。たたら製鉄が盛んであった江戸時代後期には年間60回操業が行われたが、1箇所の鈩で使う炭は810tであり、それは山林60ha分(甲子園16個分)であった。また江戸時代中期から後期にかけて鉄穴流しという砂鉄の採取方法が始まり、山肌を切り崩し水路を作って流した。この二つの点からたたら製鉄業には広大な森林を必要とした。森林の側から見ると、たたら製鉄を行うには木炭を得るため大量の木材伐採、そして砂鉄を採取するのに山を利用したため山々を荒廃させた。そのため当時ははげ山化、そして山は荒廃していたようである。
昔はげ山であったような場所は戦後に造林したようである。しかしこの造林は広島県沿岸部のようなはげ山復旧事業のようにはげ山対策をした植林方法ではなく、通常通りの植林を行った。そして現在はげ山はほとんど存在せず、植林により天然更新に近い形で復旧したと考えられる。そのため竹林も多く見ることができる。比較的簡単に森林が回復した背景として、この地域は広島県とは異なり、鉄穴流しを行ったような場所は木の生長の良い所であったからである。しかし鉄穴流しを行っていた場所は遠くからでは木に覆われていて確認することはできないが、森林内に入って見ると、通常の侵食とは違う人為的な侵食が存在し、いびつな地形(不自然な形)をしているため森林は回復したものの地形は古く昔とは変わっている。そのほか鉄穴流しの影響として残丘が残っている所もある。また鉄穴流しの跡地は棚田として利用している土地も多い。
3.基礎情報
- かつて製塩業が栄えた地域であり、今回の研究の中心でもある竹原市についての情報を載せる。
- 立地
- 竹原市は、広島県沿岸部のほぼ中央に位置する。
- 調査対象地は竹原市の山間部で主に沿岸部の側である。
- 自然概況
気候 日本では最も乾燥した温暖な地域 平均気温 15度 年降水量 1200から1400ミリ 地質 花崗岩が多い - 植生
人工林 1,138 ha 天然林 6,197 ha 針葉樹 1,028 ha 針葉樹 3,079 ha すぎ 99 ha あかまつ・くろまつ 3,079 ha ひのき 351 ha 広葉樹 3,118 ha あかまつ・くろまつ 578 ha 広葉樹 110 ha くぬぎ・なら 21 ha その他 89 ha - 農林水産省「2000年世界農林業センサス(林業編)」による
- 地形
- 広島県は南から北に向かい「低地帯」「高原地帯」「中国山地」と断層によりできた三つの高さの違う平坦な地形が階段のように並んでいるのが特徴である。竹原は、市街地は標高300メートル以下の「低地帯」、山間部は標高300から500メートルの「高原地帯」に属する。
- 歴史・産業・文化
年代 竹原に関連する出来事 17世紀 竹原湾干拓 1650 赤穂より入浜式塩田導入 1700前後 元禄時代より瀬戸内海の塩業が急速に発達 1780過ぎ 天明・寛政の頃から石炭の使用が瀬戸内海塩田の西から東へ移行していく 18世紀後半 生産過剰を招き、塩価の暴落と不売塩堆積を招いた 1805 竹原塩田において燃料が薪から石炭へ 19世紀前半 薪を提供していた奥筋の村々との論争が起きた 1909 塩田整理開始 1948 治山事業始まる(広島県) 1958 竹原塩田の約半数が流下式塩田に改良 1960 塩田廃止法のより竹原塩田全て廃止 1982 江戸中期から昭和初期に至る伝統的建造物が重要伝統的建造物群保存地区として選定 - 製塩業の他、廻船業、酒造業も行われ経済は発展し、港町として賑わいをみせていった。塩田廃止後は塩田跡地に官庁街、商店街、住宅街が移行したため、近世の中心街はそのまま保存整理された。