広島県沿岸部
昔ははげ山シリーズ1 塩田
1.景観の特徴
- 過去(江戸時代中期)
- はげ山が多く存在し、地肌が見える程激しいはげ方をしている山もあった
- 現在
沿岸部の一部ではげ山とまではいかないまでも、樹木が痩せ細っており、やや地肌が見えるといった山がある
広島県内陸部(中国山地付近)に比べると貧弱な山が多く、そのなかでも竹原市付近の地域の山々には少しはげあがった山が存在
呉市の1945年次の資料(写真)でははげ山に近いものが見られたが、現在では、昭和期のはげ山復旧事業により植生回復している
↓しかし全体としては植林によってある程度植生は回復したようであり、現在では部分的に軽度のはげ山が見られる程度
- アカマツ林が多く、この地域の特徴的な森林景観といえる → アカマツがほぼ半分の割合
2.景観を支えてきた背景
- 製塩業
- はげ山時代(江戸時代から昭和初期)
この地域は江戸時代の頃から製塩業が栄えており、入浜式塩田という方法で製塩していたこの方法は塩を得るための燃料として、昔は薪を大量に使用(注1)
↓
- 製塩時の燃料採取のために農民の薪炭利用林野の減少
塩田における石炭利用に見られるような商品経済の発展による農村生活の窮乏
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- 薪炭燃料を購入できない貧困層による入会地の乱伐により森林劣化(はげ山化)
注1)1733(享保19)年における広島県竹原塩田72軒の塩釜の薪代は総額銀288貫で、これを松の束に換算するとおよそ20万本分の松の木が1年間に消費されたことになる
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- はげ山回復時代(昭和中期以降)
- 竹原塩田においては1929年に塩田整理が行われることで塩田数は減少し、1958年に約半数が流下式塩田に改良された(塩生産効率上昇)
- 1948年より治山事業が行われた
- 1960年には塩田廃止法により竹原から塩田は消えた
↓
- 治山事業による植林の成果もあり、現在でははげ山はかなり減少しほぼ植生回復
しかしやや痩せ細った木が見られる場所、貧弱な山もあり、一部軽度のはげ山も存在
- はげ山時代(江戸時代から昭和初期)
- 自然条件
- 乾燥した気候
- 花崗岩が多く、土壌が貧弱 ↓
- 植物の育ちにくい環境 ↓
- このような環境においてもアカマツは育つことが可能
3.基礎情報
- かつて製塩業が栄えた地域であり、今回の研究の中心でもある竹原市についての情報を載せる。
- 立地
- 竹原市は、広島県沿岸部のほぼ中央に位置する。
- 調査対象地は竹原市の山間部で主に沿岸部の側である。
- 自然概況
気候 日本では最も乾燥した温暖な地域 平均気温 15度 年降水量 1200から1400ミリ 地質 花崗岩が多い - 植生
人工林 1,138 ha 天然林 6,197 ha 針葉樹 1,028 ha 針葉樹 3,079 ha すぎ 99 ha あかまつ・くろまつ 3,079 ha ひのき 351 ha 広葉樹 3,118 ha あかまつ・くろまつ 578 ha 広葉樹 110 ha くぬぎ・なら 21 ha その他 89 ha - 農林水産省「2000年世界農林業センサス(林業編)」による
- 地形
- 広島県は南から北に向かい「低地帯」「高原地帯」「中国山地」と断層によりできた三つの高さの違う平坦な地形が階段のように並んでいるのが特徴である。竹原は、市街地は標高300メートル以下の「低地帯」、山間部は標高300から500メートルの「高原地帯」に属する。
- 歴史・産業・文化
年代 竹原に関連する出来事 17世紀 竹原湾干拓 1650 赤穂より入浜式塩田導入 1700前後 元禄時代より瀬戸内海の塩業が急速に発達 1780過ぎ 天明・寛政の頃から石炭の使用が瀬戸内海塩田の西から東へ移行していく 18世紀後半 生産過剰を招き、塩価の暴落と不売塩堆積を招いた 1805 竹原塩田において燃料が薪から石炭へ 19世紀前半 薪を提供していた奥筋の村々との論争が起きた 1909 塩田整理開始 1948 治山事業始まる(広島県) 1958 竹原塩田の約半数が流下式塩田に改良 1960 塩田廃止法のより竹原塩田全て廃止 1982 江戸中期から昭和初期に至る伝統的建造物が重要伝統的建造物群保存地区として選定 - 製塩業の他、廻船業、酒造業も行われ経済は発展し、港町として賑わいをみせていった。塩田廃止後は塩田跡地に官庁街、商店街、住宅街が移行したため、近世の中心街はそのまま保存整理された。