静岡県天竜林業地の地域森林景観

1.地域の概況と基礎情報

(1)地域の概況

【立地】

天竜林業地域は、静岡県西北部、南アルプス南西部に位置し、急峻な山々と地域の中央を流れる諏訪湖に端を発した天竜川、及びその支流である気田川、横山川、阿多古川、二俣川が浸食した谷底低地を有する山岳峡谷地形である。天竜林業地域は、天竜市を中心地とし、周辺の春野町、龍山村、佐久間町、水窪町を含めた1市3町1村からなる北遠地域、総面積94,386haに広がるスギ・ヒノキの人工造林地域である。北遠地域の森林面積は86,067ha(林野率91%)であり、うち民有林は68,000ha(森林面積の79%)、民有林の人工林率は81%で、県平均60%及び全国平均46%を大きく上回る。特に龍山村は92%、佐久間町は85%と高率である。天竜林業地域は天竜川の水運を利用することで江戸時代より発達し、現在でも奈良県吉野林業や三重県尾鷲林業、大分県日田林業などと並ぶ日本有数の林業地であると同時に、日本三大人工美林のひとつと称されることも多い。

表○○ (天竜林業HPより)

図○○ 天竜地域図

【自然の概況】

1. 気象

天竜林業地は、やや内陸性の気候のため、日較差や年較差がやや大きい。また、南寄りの暖湿気流が強制上昇されやすい地形のため、降雨が強められ、大雨が降りやすい。とはいえ、基本的には太平洋沿岸域の中部地方であるため、気温は一年を通じて高めであり、夏に多雨、冬は少雨で晴天が続くといえる。年平均気温は12‐16℃、降水量は2,000‐2,500mm。また、龍山村や佐久間町など北部山間部では霧が発生しやすい。

2. 地形・地質

地形は、一般に急峻で複雑な山岳地形を示すとともに平坦地が少なく、前記のように総面積の91%が森林によって占められている。奥地には白倉、黒法師岳のように2,000m級の山岳がそびえ、それらに源を発する支流は25にも及んでいる。

地質は、中北部に目本列島を分断する中央構造線が走っているため、脆弱な地質構造となる。また、佐久間町、龍山村は中央構造線とそれに沿った二つの変成帯や赤石裂線に挟まれた複雑な構造帯に位置している。そのため、地滑りなど山間地特有の災害も数多く発生している。天竜川及び阿多古川流域にかけては広く結晶片岩が現れる。気田川沿いには三倉累層群、赤石層群、水窪川沿いに秩父古生層、佐久間町一部に花崗岩も出現するが、結晶片岩地帯が最も面積的に広く、特に優良林分が多く見られる。また、土壌は褐色森林土・が発達している

3. 植生

北遠地域の総面積94,386haのうち森林面積は86,067ha(林野率91%)であり、人工林面積は55,411ha(人工林率81%)である。森林面積のうち、スギ・ヒノキの人工造林地以外には、薪炭材の採取のため人の手の入ったコナラやクヌギ、シデ類の落葉広葉樹林が、道路脇や人の手のあまり入らない谷筋や社寺の森ではカシ、シイ、クスノキなどの照葉樹林がみられる。また竜頭山周辺や水窪川上流部などの奥地には、部分的にブナの天然林も残っている。

【社会・経済の概況】

1. 人口

人口は、42,367人で、県の1.2%を占める(平成12年現在)。若年層の地域外流出などによる人口の減少が続き、天竜市を除く3町1村が過疎地域に指定されている。65歳以上の人口率も24.7%(県平均14.4%)と高い。

2. 産業

産業は、天竜美林といわれる地域だけに、林業や木材産業が発達しており、その他にお茶栽培を中心に中国野菜やシキミなどの花卉類生産などの農業が営まれている。一次産業就業人口率は11.2%と高い(県平均6.9%)。 観光面においては、近年のアウトドア志向の高まりから森林や清流を求めて来る観光客が増加している。火防振興の霊山として名高い秋葉山をはじめ、国の天然記念物に指定されているヤシオツツジの群生する岩嶽山、新緑と紅葉の美しい明神峡などの美しい自然が数多くあり、年間230万人を超える入客数がある。

(2)基礎情報

【地形図】

【地質図】

【植生図】

【空中写真】

【施業、管理計画関連図】

概要にもどる

2.景観の特徴

(1)樹種の多様性

天竜地域は、人工林の割合が非常に高い地域である(県平均60%,龍山村92%,佐久間町85%)が、その樹種の構成を見てみると、スギ林が68%(残り32%はヒノキ)となっている(@天竜林業HP)。この樹種構成とほぼ同じ比率である吉野林業と同様に、そのテクスチュアはやわらかい感じとなっている。一方、日田林業ではスギ林の割合は85%と高く、テクスチュアは整然としている。

表○○有名林業地の樹種構成

  スギ林の割合 テクスチュア
天竜林業(静岡県) 68% やわらかい感じ
吉野林業(奈良県) 68% やわらかい感じ
日田林業(大分県) 85% 整然とした感じ

写真1 人工林(調査地点1.)

(視点)…名古尾沢北側対岸

(対象)…名古尾沢北側

(考察)…所々丸みを帯びた樹冠をしている広葉樹が存在しているものの、ほとんどがスギ・ヒノキの人工林である。テクスチュアはやわらかい印象を受ける。林床は手入れが行き届いていて下草は少ない。写真右下付近のように、樹幹が見えるところもあるが、京都の北山のように特徴的な見え方をするものではない。

写真2 人工林(調査対象地点2.)

(視点)…大滝北側対岸

(対象)…大滝北側

(考察)…広葉樹が見えるもののほとんどが人工林となっている。写真は佐久間町(人工林率85%)であるが、天竜林業地ではこのような景観が広範囲に広がっている。

(2)茶畑集落と森林

天竜地域は、地形的には急峻で、谷あいではV字谷を多く形成している。またこの付近は、中央構造線や赤石裂線に挙げられる構造線や断層が多く通っているため、地盤が弱くなっており、山の中腹では土砂崩れや地すべりが起きやすい地形となっている。この土砂崩れや地すべりが起きた際の跡地などの緩傾斜地は、その後人々が住みついて集落を形成することがある(図2を参照)。

お茶は傾斜地でも栽培することが可能であることに加え、耕地面積辺りの収益率が高い。さらに、天竜地域は、比較的低温で霧が発生しやすいという気候的条件を持っているため、この集落では(副)産業としてお茶の栽培が盛んであり、茶畑が多く見られる。

このような集落を外から眺めてみると、森林を背景とした中にぽつんと茶畑を営む集落が点在している景観としてとらえることができる。写真1及び写真2は、天竜川を挟んで対岸の国道からこのような集落を眺めたときの景観である。お茶の産地である静岡県らしい景観が、人工林地帯の中にも存在していることが把握できる。

土砂崩れ

図2 天竜川流域断面図

写真3 茶畑集落(調査対象地点3.)

(視点)…半血沢対岸

(対象)…大滝付近(半血沢北側集落)

(考察)…人工林の中に所々集落が存在している。茶畑も見受けられる。周りの森林が集落を隠すため、外からは集落は見えにくいものとなる。実際に集落まで行くと外から見るよりも広く感じられる。

写真4 茶畑集落(調査対象地点④)

(視点)…半血沢南側対岸

(対象)…岩井戸付近(半血沢南側集落)

(考察)…崩壊を防ぐためにコンクリート擁壁で固められていた場所の上部に集落が存在している。この辺りは地盤が弱いところで地すべりなどが起きやすいが、緩傾斜地となったその跡地をうまく利用した集落と言える。この集落でも茶畑が多く存在している。

(3)防火帯

山火事のときの延焼を防ぐために、尾根沿いには雑木や広葉樹林帯が帯状に存在している。かつては裸地も存在していたが、今は所々広葉樹林帯が残すのみである。

(@航空写真挿入??)

(4)沢沿いの広葉樹林帯

沢沿いの谷筋には広葉樹林帯が残っている。天竜地域は全般的に、地形が急峻で地盤が弱い性質があるが、特に沢沿いは涌き水が流れているため特に地盤がもろく、場所によっては土砂をためる砂防ダムが作られているところもある。また、仮に地盤がよい所でも、当然水量が多いときには容易に苗が流れされてしまうため人工林を植えることができないようである。そのため、人工林を植えることはできなかったところに、自然的に発生した(どこからか種子が飛んできてうまく根付いた)天然の広葉樹が多く見られるになっている。

写真5 沢(調査対象地点⑤)

(視点)…ハンガレ沢対岸

(対象)…ハンガレ沢

(考察)…周りは人工林に囲まれているが、谷筋を通る沢沿いには広葉樹が多く集まっているのが観察できる。周りの人工林に比べ、広葉樹は丸みのあるテクスチュアで多彩な色を示しており、その対比が見てとれる。

写真6 谷筋(調査対象地点⑥)

(視点)…名古尾沢−半血沢間の谷筋

(対象)…名古尾沢−半血沢間の谷筋対岸

(考察)…谷筋に広葉樹が多く集まっているのが観察できる。広葉樹らしく、もこもことした丸みのあるテクスチュアをしている。また、紅葉している樹木や既に葉の落ちた樹木など多様な樹木がところどころ見られる。また、同じ緑色の樹木であっても、その濃淡は様々であることも確認できる。

(4)広がり

(5)樹形

(6)樹幹の見え方

(7)樹木密度

(8)林床

概要にもどる

3.景観の管理と形成

(1)天竜林業の形成史

ⅰ)江戸期以前

天竜地域の人工造林の歴史は、文明年間(1469‐1487)に秋葉神社(春野町)や山住神社の境内林に、熊野より運んだスギの苗木を献植したことが始まりといわれている。一般的には、江戸時代以前の木材算出は、領主的階級への貢納的・義務的算出が主であったと推察される。戦国末期から江戸時代初期は、大土木事業が全国各地で行われ、戦国大名や織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に代表される城郭築城投入された山林資源は計り知れない。そのような時代に、天竜地方の莫大な山林資源は、今川氏や徳川氏にとって非常に魅力的なものであったと考えられる。徳川家康が長野県の木曽谷や伊那谷とともに、天竜川中流域の北遠地方を直轄領としたのは、鉱山だけで山林資源を確保したかったためと推測される。農民の山林利用としては、泡・稗などの食糧生産(焼畑)と自家用の薪炭材の採集などで、ほかには自然自生の林産物を販売するぐらいであったと思われる。

ⅱ)江戸期

江戸時代に入ると、1617年頃すでに民間材の取引が行われていた。一方、人工造林に関しては、元禄9(1696)年に 静岡県磐田郡水窪町山住神社の宮司山住大膳亮茂辰が、紀州熊野権現への参拝の帰途、苗木3万本を伊勢方面より持ち帰って植林したという記録が残っている。氏は一代で植林した本数は36万本に及ぶともいわれているが、このスギは、明治に入ってから伐採し、東京市場に出荷され、山住杉の名声を博した。しかし、当時このような植栽は極めて稀で、民間の所有林に植栽が行われるようになるのは、さらに半世紀以上先である。

江戸時代中期以降には徳川幕府からしばしば植林を奨励するお触れが出されたり、各地の山林実態調査が行われたりするようになった。それは江戸や大阪などの諸都市が発展するにともない建築資材の需要が急激に増大したことと、江戸など人口密集地では避けられない火災の多発による町の再建や江戸城再建により、材木相場が急騰し、復旧用の資材も容易に手に入らなくなったからであった。こうした中、木材産地の木曽や吉野地方では、江戸初期以来の乱伐により、はげ山や幼木材が増えていたことに加え、天竜川や大井川などの他地域の山林では、ほとんどがまだ自然林に近い形であったので、幕府も育成林業の必要性を認識し、宝暦14年(1764)から植林奨励策を積極的に打ち出し始めた。石谷備後守から天竜沿岸23か村に、御林並びに百姓持山にスギ・ヒノキの挿し木が申し渡され、植林の仕様書まで配られた。当時は技術的な問題で挿し木をしても枯らしてしまうことが多かったが、慣れるに従って、根着き率も高まり、スギ・ヒノキの植林はかなり軌道に乗りだしたようである。

天明年間(1781−1788)に入ると山林に経済低価値を認めて、売買や質入の対象にするようになる。これは年季山売買と言われるもので、自分の持山をある年季(例えば30年)で売るあるいは借金の形とし、既に植栽してあったスギ・ヒノキの弱齢林は成木後自由に伐採し販売した後、元の所有者に返すというものであった。このような育成林業の進みを示す年季山売買は、江戸時代後期の文化文政天保時代にもっとも多く見られるが、その始まりは天明年間であることから、天竜地域に育成林業が普及し始めたのはこの頃であると思われる。このような年季林を最も多く持っているのは横山村(現天竜市北部)の林業家、青山家であった。青山善右衛門が創始したといわれる柿板(こけらいた:屋根を葺くのに用いられた、スギなどの薄い削り板)は、天竜川の水運を利用し川船に積まれ掛塚港に送られ、掛塚の回船問屋によって江戸に回漕され、江戸市揚を独占し名声を得た。また年季山売買のほかに育成林業の進みを示すものに、分収林業がある。これは山地主が植付人に山地を貸与し、成木するまでの期間を年季としてその間の育成作業一切を植付人にまかせ、材木売却の際に代金を一定の割合で分収するというものである。これは天保から幕末にかけて、一層広く行われた。このように、近世における天竜地域での育成林業の発達は青山家をはじめとする数人の有力木師を中心として徐々に拡大していったものと思われる。したがって、年季山売買や分収林業の対象地域は二俣から西川白倉までの比較的狭い地域に限られている。この点は吉野などの林業が域外の大資本家によって年季山が買い集められ、その所有権が域外に流出してしまったこととかなり違いがあると言える。

ところで、植林事業は林地に適し、木材運搬に使う川に近い山地でなければならない上、長期の年月と多額の費用を要する。そのため、天竜市域には植林できない山地がまだ多く残されていた。こうして見ると、この時代の育成林業は急速に展開したというよりも、その基礎が確立されたと言える。天竜地域において育成林業が全面的に進展したのは明治中期に始まる金原明善の大規模な植林事業以降ということになる。

いずれにしても天竜地域がスギ・ヒノキの優良林業地として名を知られるようになった第一の理由は、木材輸送に便利な天竜川とその下流掛塚に江戸向けの回船問屋が存在するという地理的条件であったことは間違いない。江戸時代の木材輸送は船運によっていたため、四季を通じて豊富な水量を持つ天竜川の役割は非常に大きかったのである。またこの時代の天竜林業の特徴として、前述のような杮板や樌板、四分板などが江戸で好評を博していたこと、その中心であった天竜市横山と龍山村西川に早くから大きな木材市場が形成されていたことなどがある。静岡県の他の林業地である大井川流域や富士川流域にこのような発展過程は見られないといわれている。また、天竜林業の山地取引や山林の年季山取引、分収林業などは、すべて山形の有力木師を中心に完結され、域内で終わっている。従って、他所の林業地のような域外の大資本は入っていない。これらの有力木師の中には御用材を扱う者もあったが、大部分の木師は小規模な経営で民間材の仕出しにあたっていた。このように、天竜林業は自己資本により、農民的林業地帯として発展してきたのが特徴である。江戸時代に天竜林業と金原明善の明治以降の天竜林業を比較する点は、ここにあると言える。しかもそれらの有力木師の資金投入は域内の植林、造材、船運のみならず、域外の渡船業者や掛塚港の回船問屋まで拡大し、しかもその事業を育成する関係にあったということは、他の林業地には見られないことである。

ⅲ)明治期から現代まで

明治5年(1872)、土地の永代売買の禁止が解かれ、現在の土地所有制度の基礎が確立された。この時、山林の大半を占めていた入会地が個人に分割された。材木商とともに、茶や三椏、楮などの商品作物を取り扱っていた商人や有力農家は維新後の遷都に伴う木材需要の増加の中で山林に投資するようになり、分割された山林も次第にこれらの有力者の手に移ることになった。この頃から、天竜市には山林家が現れるようになった。天竜市で一般的に植林が行われるようになったのは、明治中期以降で、植林の対象となったのは採草地や放置されていた広葉樹林であった。このような中、明治7年(1874)に木材業者の団体として天竜川材木商会として創設された、天竜川材木商同業組合が天竜林業の発達の過程で果たした役割は非常に大きい。この組合は一貫して流材対策、労賃、運賃の協定、筏流路にあたる河川の浚渫などの事業を推進したからである。明治10年(1877)横山村(現天竜市)に、水力製材が始めて操業されたが、その後機械化が進んで機械製材が主力となるのは、明治30年頃からで、これまでと違って、小径木でも加工できるようになった。その結果、伐期が短く回転が速くなり、一層植林を推進する結果となった。一方、大規模造林を促進したのは、明治19年から金原明善によって行われた瀬尻の献植であった。金原明善は“あばれ天竜”と呼ばれた天竜川の氾濫を契機に河川改修に自費で取り組んだ後、オランダ人技師リンドウと天竜川上流を調査し、植林の重要性を知り「河を治むるは、山を治むるにあり」との治山・治水の考えから、静岡県磐田郡龍山村瀬尻の御料林759町歩に292万本の献植をするとともに、隣接する私有地1,200町歩に401万本を植林して今日のような育成型林業の礎を築いた。今日でもその森林の一部は記念林や学術参考林として管理されている。他にも、熊村の愛林社による水窪の水なし山林や、亞多古川筋における郡有林の植林などがある。こうした大規模造林に必要な大量の苗木の需要を満たしたのは、赤佐村や鹿玉村を中心とした種苗業者の貢献によるところが大きい。従来は山元業者の育苗に依存していたので、大量の需要には対応できていなかったからである。

明治22(1889)には、国鉄東海道本線の開通によって、掛塚港からの海上輸送が陸上輸送に変わり、木材や製品の輸送条件が好転して、国鉄駅に近い中ノ町一帯が製材工場の中心となった。また、同年日本初のパルプエ場として、王子製紙気田工揚が春野町に建設された。さらに、同年、静岡県の山林組合準則が交付され、これにより、6月に阿多古川山林組合が、明治23年(1890)には光明山林組合が設立された。また、明治30年(1897)には、日本初の「森林法」が制定され、明治40年(1907)には同法を改正し、「森林組合制度」を設け、林道の開設、森林の保護、造林、森林土木などの事業を推進した。この森林法改正による森林組合は、大正2年(1913)熊村に、他の町村でも大正末期から昭和にかけてそれぞれ「保護造林土光森林組合」として発足した。昭和14年(1939)、戦時体制に入って森林法は再び改正され「追補責任森林組合」となった。昭和15年(1940)には、国鉄二俣線が開通したのを機に二俣町(現天竜市)は木材産業によって町の発展を図ろうと二俣川河口に天竜川下げ筏を惹き入れるための貯木場を建設し、その結果、遠江二俣駅付近に4社の大製材工場が設立された。昭和16年(1941)、太平洋戦争開戦により、組合本来の目的と異なった森林の強制伐採の実行機関として木材の供出を取り扱うなど、木材統制法によって設立された県木社・地木社に協力することとなる。その後、終戦による混乱した社会の中で、戦時中の強制伐採に加え、戦災復興や米軍への賠償資材などにより森林が乱伐され、山地が極度に荒廃した。これらを復旧し、植林を促進するために森林組合は造林用苗木の確保に苦労した。しかし、戦時中の素材生産の経験はその後の林産事業の拡大に役立つこととなった。

昭和30年代に入ると、戦後の経済はあらゆる面で急激な進展と構造の変化をもたらした。昭和35年(1960)8月、こうした急成長の経済の中で木材の需要が高まり、価格が急騰したため河野外相は外材の輸入と、国・民有林の増伐を図った。これによって、天竜市の製材工場にソ連材が入荷したのは昭和36年(1961)からであった。昭和37年(1962)には国内材の流通機構として重要な担い手となる県新聯の原木市場が開設された。昭和39年(1964)には「林業基本法」が公布され、これに基づいて林業構造改善事業が施行されたことにより、生産基盤整備のための林道施設や協業体としての森林組合の資本整備の充実が進んだ。またこれらの事業を遂行する必要性から機構の一体化を図るため、森林組合の統合も進められた。しかし、昭和30年代以降、外材の輸入は次第に増加し、昭和50年代に入ると木材価格は外材主導となり、建築資材として国内材に代わって外材が多量に使用されるようになり、国内材の価格が低迷するようになった。この頃から山村の過疎化、林業従事者の高齢化が問題視されるようになり、現在に至っている。

【金原明善の林業開発】

金原明善は、天保3年(1832)遠江国長上郡安間村の金原久平の長子として生まれ、その名を弥一郎といった。明善の生まれた安間村は、天竜川の下降に近い西岸にある村で、古くから天竜川の洪水に悩まされていた。成長するにともない、役人として村政に携わるようになると、天竜川の洪水を如何にして少なくするかという使命感のようなものを持ち続けていた。特に明善の経験した万延年間の洪水や、慶応4年(1868)5月の洪水は未曾有のものであった。慶応4年(1868)5月は、幕府が倒れ、明治維新政府が成立するという動乱の時期でもあったから、洪水が発生し多くの被害者が現れても、積極的に救済しようというものもなく、復旧工事にも手が回らなかったと思われる。浸水した水は一向に引かず、多くの人々は食糧難のため、乞食となって各地をさまようような人もいたという悲惨な状況であった。

このような状況を前にして立ち上がったのが明善で、人々を救済するために旧幕府の御用林から復旧用の木材の伐採を願い出たり、扶食米の放出をさせたり、堤防の応急工事を実施するなど大いに努力をした。このような対策は、応急処置的なもので、このような悲惨な状況を根本的に克服するには、天竜川の堤防の本格的な復旧以外に方法がなかったため、明治政府も天竜川の洪水を重視して、岡本建三郎や高石幸治らを天竜川の水防掛に命じ、現状調査を進め、また関係者を集めて意見を聞くとともに、復旧計画を立てようとした。この時、岡本、高石らは明善のところにも立ち寄り、明善の天竜川治水への協力を求めたといわれている。このような事情が明善を天竜川治水へ駆り立てる動機となり、以後明善を天竜川の治水に精魂を傾けさせることになる。

明善は明治7年(1874)に、堤防会社を設立して、天竜川の治水の画期的改善を図ろうとした。その後、治河協力社にこれを改組する中で、この事業を成功させるため、天竜川流域の綿密な調査を実施した。これは、天竜川について、直接洪水の影響のある遠州二俣(現天竜市二俣)以南はもちろん、その上流についても天竜川の源である信州諏訪湖にいたる全域を実地踏査し、適切な方策を立てようとした。さらに、明善が地域時住民を洪水の被害から守ろうとするには、強固な堤防の構築はもちろんのこと、それに加えて上流地方の山々を洪水を容易に発生させないような状況に変えることも、さらに重要なことであると感じていたのも、天竜川の全流域を調査したこの頃からと思われる。つまり、天竜川の下流地方の住民生活の安定は、上流地方に住む住民の安定によってもたらされると考えるようになっていくのである。

しかし、そうした発想も当面天竜川の治水が手を放せない状況であったので、そこまではなかなか手が回らなかった。しかし、明善の主宰する治河協力社の使命も一応達成し、治水工事も政府の手に委ねられるようになると、明善は企業的活動を開始するとともに、東京為替店を経営し始めるが、この経営もまもなく支配人に任せ、明治18年(1885)に東京から遠州に戻ってくる。これは、寺田彦太郎や川村矯一郎らの激励も受けて、天竜川流域の洪水の発生の緩和するための植林事業に手を出すためであった。

植林事業に手を出すに当って、研究熱心な明善は奥三河北設楽郡稲式村の豪農古橋家の当主源六郎を訪ね、その経営する山林を視察し、また植林に関する経験を聞くなど、大いに勉強していた。このような研究を背景に遠州に戻った明善は、遠州地内のどこで植林事業を始めるか、その候補地選びのため遠州の奥地までくまなく踏査した。この踏査旅行は大変困難なものであったようだが、浦川村に住む矢高濤一の協力などにより、植林事業を開始する候補地として瀬尻の官有林を上げることができた。このように、植林事業を実施する候補地が選ばれると、一度東京に戻り、瀬尻官有林植林委託願を提出する手続きをする準備を進め、準備が済むと、農商務省静岡山林事務所に願書を提出するため静岡に戻り、明治18年(1885)10月に官有林植林委託願を提出した。その内容は、遠江国豊田郡瀬尻村字河内奥外二字の二等官林を、合計600町歩(600ha)を改良し、そこにスギ苗240万本、扁柏苗30万本を、一坪に一本半植付けようというもので、明治20年(1887)から明治34年(1901)にかけての15年間に植栽し、終了次第返納するというものであった。

明善が官林植林を願い出た精神は、上述のように天竜川の治水と深いかかわりがあるが、この点について明善が「輓今頻ニ沿岸ノ森林ヲ盗伐シ碧山ノ変リテ円嶂ト化シ、動モスレハ春雨潦然崩土淤ヲ流シ、河床ヲ於高ナラシメ決提散溢ノ患ヲ醋醸スルノ兆ヲ現出シタレバナリ、其害タル蓋シ細カラサルナリ」と述べているのを見れば明らかである。明善のこのような指摘は、天竜川中流域の村々における、幕末、維新、維新後における東京木材市場での遠州材の価値が高まるにつれて起こる林野の盗伐傾向を見て、それが洪水発生の原因であると見ての願いであったのである。しかもそうした願いを実現するに当って、官林を改良できればどこでもいいわけではなかった。明善は先の天竜川の調査の結果、瀬尻村付近の河内奥の官林が、天竜川に面して険しい地形を示し、かつ樹木の生育状況も稀疎で、将来土砂崩れの危険性を持っていると判断していたのである。したがって、こうした土地に植林を進めるならば、土砂流出を抑制できるだけでなく、植林事業を通じて造林の模範を示し、人々をそれによって指導し、その例に従わせることもできるものであるという趣旨も願書には書かれていたのである。このような願書の提出に対して、静岡山林事務所は、許可を出した。一方明善は、植林事業を進めるには良質な苗木を確保する必要があることを痛感し、その苗木を育てる苗圃をつくるため、官林内で苗圃を借りる願書を提出し、その準備に着手し、その許可を受けたことで明善の植林事業の準備は完了したのである。

しかし、植林地が確保され、苗圃地が確保されたといっても、それだけで広大な官林の植林ができるわけではなかった。ここで登場するのが先の天竜川調査の際に、明善に協力した矢高濤一であった。官林改良願の許可を受けた明善は、浦川村の矢高を訪れ、改良について相談し、瀬尻官林の植林の諸準備を矢高に頼んだ。明善の依頼を受けた矢高は、腹心を集め、どこから着手するのか、人夫はどこから集めるのか、それをどのように組織し統制指導するのかなど、様々な面から計画を練り上げていった。この時の矢高は、死骨に鞭打って、目を輝かせて準備にあたったことが知られている。矢高の準備が整ったという報告を受けた明善は、善は急げと明治20年(1887)から植林に着手するという予定を一年繰り上げて、明治19年(1886)から実施するという着手願を静岡山林事務所に提出し、それが許可され、遂に官林植林事業に着手することになる。

矢高濤一を現地の有力な応援者とし、実際の事業推進の責任者として辻五平を登用し、困難な植林事業は開始された。現地に急増の事務所を建てて、いよいよ植林に着手したが、それには植林する場所の地拵えが必要であったが、瀬尻のような自然林であると、伐木や火入れ、木や根、岩の除去に多くの労働力を要し非常に困難であった。瀬尻の植林に当っては、こうした困難をともなったが、幸運なことに植林を予定した約200町歩の面積についてみると、ヒメコマツ、モミ、ツガ、クリ、雑木など目通り一尺内外のものから五尺までくらいのものが、総計12700本くらいもあったので、これらの立木は植林をはじめるにあたり、政府の手によって商人に払い下げられたので、払い下げを受けた商人は立木の伐採をした。これは、地拵えの経費を削減する上でも好都合であった。また、これらの木の枝や不要部分が現地に残されていたから、これらを焼いて地拵えをした。しかし、地拵えは焼くだけでは不十分で、巨石などを取り除き区ためには、村田雷管などを用意して、火薬を用いる方法も取られていたようである。

地拵えの後は、植付けが始まるが、まず苗の育成が重要になる。苗も自然に生えたものを集めて、それらを植える方法もあるが、苗の成長を順調にするには、吉野、熊野、木曽など優秀な木材山地から種子や苗を買って、研究改良する中で苗を確保していた。こうして確保しようとした苗は、平口の苗圃において、明治21年(1888)で、302万本余りが確保されていたという。また、植付けにあたっては、当初吉野杉の産地の例に習い、一坪当たり2本半という密植法がとられたが、明治21年(1888)以降になると、既に一坪1本植という疎植法に改められていた。植付けに最も必要とされるのは人夫であるが、その人数は明確にはわからないが、瀬尻に住んでいた人の伝えるところによると、人夫700−800人、その家族を入れると1000人くらいの人数がいたらしい。これら人夫の出身地は、新開、和山間、地八など瀬尻周辺の人々をはじめ、三河、美濃、信濃など合計13ヶ国から来ていたという。これらの人夫は出身地ごとに組を作り、新開組、和山間組、地八組、信州組、平石組などと組ごとに飯場のようなものも作られていたようである。組には人夫頭がいて、組を指揮していた。いわゆる庄屋制度である。そして、人夫の中には家族もいたから、子供たちのために寺子屋も開かれ、明善の次男、喜一が教師を担当していた。これら人夫によって植え付けられる苗木の量は、標準として明治21年(1888)の報告では、杉苗付:一人200本、桧:同100本、二年子杉床替え:一人1000本、一年子杉桧床替え:一人2000本となっていた。このような標準で、明治21年(1888)には、一年間総人夫延数8505人を当て、予定を完了しようとしており、また明治23年(1890)には、杉植付け本数66万5599本を、桧植付け本数11万5420本を予定し、その人夫数も延6087人を予定するなど、事業の展開を考えていた。

このように、瀬尻の植林は展開されたのであるが、これと並行して金原林の造成にも力を尽くしていた。金原林というのは、天竜地域の神妻山、橿山、福沢山や、愛知県北設楽郡振草山、大入山、さらには、滋賀県甲賀郡内に分布するものの総称であり、金原明善が自己資金で買い入れた山林であった。金原明善がなぜ自己資金で山林を買い集め、そこに植林をしようとしたのかというと、一つには瀬尻の場合と同様に治水のための治山であり、またそれによって植林思想の普及と大規模人工造林の可能性を林業家に示し、それによって林業発達に寄与しようとしたことも瀬尻と同様である。また、こうした事実を通じて、国富の増殖を目的としていたのも同様であるが、そうした目的の大半は瀬尻の植林によって達成されるはずなのに、敢えて金原林を設立し、広大な自然林に人工造林を図ろうとしたのは、経営上の理由であったといわれている。つまり、750町歩の瀬尻の御領林にのみ植林するより、そのついでにさらに多くの土地に造林できれば、投資効率が高まるからであったといわれている。このような理由から始まった金原林の一部に神妻山があった。瀬尻御領林の造林に平行して金原林の造林も開始されたのであるが、最初は官林に接続した民有地を買収していたため、面積的にはさほど広くはなかった。しかし、明治22年(1889)6月に神妻山の買収により、面積は広くなったが、神妻山は瀬尻の事務所から3里も離れており、不便なことも多かったため、明治22年(1889)9月には神妻山にも事務所を設け、植林事業に当たるようになった。神妻山の造林が始まると、品川弥二郎はここにも足を運び、植林の状況を視察し、事務所の責任者である金原己三郎を激励していた。こうして神妻山や、それに連なる半場山に本格的な植林が始まるのは、明治23年(1890)頃からで、明治28年(1895)までに、スギ173万9131本、ヒノキ31万3284本の合計205万2415本であったといわれている。このように、大規模な造林を行うとなると、現場との連絡のために林道も開設され、この林道を通じて食料など人夫の必要なものは送られていた。

これまで述べてきたように、金原明善が瀬尻御領林の植林を始め、さらに神妻山、半場山などの金原林への造林事業を発展させると、そうした造林方式を見習い、浦川、佐久間、山香など天竜地域の他の地域でも急激に造林熱が高まるようになり、今日の天竜林業地域の基礎を形づくったのである。

【木材の搬出と流送】

ⅰ)木材の搬出

林道が発達していなかった時代には、先山造材(伐木を山で一定に長さに切って揃えること)が終わって、「りんずみ(造材した丸太を山の斜面に椪積すること)」された丸太は修羅出し、桟手、木馬、鉄索運材などによって天竜川の川岸の土場や支流の川狩土場まで搬出されたが、これらの搬出方法は木材の量、度場までの距離などによって選択され、特に短距離で少量の場合は担ぎ(人の肩)などの人力によることもあった。

【修羅出し】とは、吉野林業から導入されたと言われているが、江戸時代には既に行われていたようである。これは傾斜の緩やかな場所で、沢の中に二間(約3.6m)の丸太を沢に並行に並べ、その上を材木の重みを利用して滑らせる方法で、短距離の場合に使われた。桟手は横山村の青山善右衛門が文明年間(1804−1817)に岐阜県飛騨地方から山出し職人を雇い入れて造らせたのが始まりといわれている。

【桟手】は修羅が利用できない急斜面の両側に丸太を並べ、中間に枝葉を組み合わせて滑らせる方法である。山の斜面をじぐざぐに滑り下ろし、曲がり角は枝条で臼場を設け、滑ってきた丸太がこの臼にあたって減速され、次の溝に落ちるときに反転して滑るのである。この方法は本流筋ではあまり行われなかったが、気田川上流では修羅と組み合わせて昭和初期まで盛んに利用された。

【木馬】は明治22年(1889)、現在の龍山村雲折西ヶ沢で使用されたのが、最初である。この方法は「橇(そり)」ともいい修羅出しに比べ木材の損傷が少ないので天竜川木材商同業者組合は明治38年(1905)から木馬道の開設に補助金を交付するようになり、明治40年頃から急速に普及するようになった。そして、その後、鉄索運材が普及するまでは木材搬出の主役であった。木馬による出材は、林内に4−5尺の道を開き、路上に堅木の径1−2寸の盤木を1−2尺間隔に並べ小杭で固定し、その上を丸太を積んだ木馬を滑らせる方法である。木馬道の勾配は平均10−15度が適当であるが、短い距離では15度以上の急傾斜地にも使われた。この方法はワイヤーロープを腕木(木馬に積んだ木の一部)に巻いて制動するワイヤーロープは大正末期から使用されるようになったが、それ以前は挺子によるか腕木を担いで制動していた。勾配の緩やかなところでは、竹筒で作った油壺に菜種油や大豆油などを入れて盤につけて滑りをよくした。このように木馬は木材を山から搬出されるのに使うが、逆に高所に引き上げるには神楽桟(たてしゃち)が使われた。

【鉄索運材】は明治22年(1889)に現在の龍山村丸山に延長50間(約90m)の単線式鉄索運材施設が始めて設けられ、明治40年には天竜市でも使われるようになった。

【人力運材】は末口直径1尺、長13尺の丸太を二人で担ぐのが標準とされ、作業中の杖と兼用に休むときに丸太を支えるため「荷棒(にんぼう)」を使用した。また地形によっては、丸太の端に環を打ち、これに綱をつけて人力で曳く「環づり」も簡便な方法として多く使われた。また馬で曳くこともあった。

【手車・地車(じんどう)】は林道、村道、里道の開設が進むにつれて使用が盛んになった。

【軌道運材】は運搬能力は大きいが余り利用されなかった。大正9年(1920)龍川村で軌道が敷設され、昭和30年頃まで運営された。これはトロリー(手押貨車)に木材を積み人力によって動かす人車鉄道である。

ⅱ)木材の流送

1. 川狩

天竜川には多くの支流が注いでいるため、これらの河川では江戸時代から「バラ狩り(木材をバラで流送することで「川狩」ともいう)」や筏流し、船積みが行われていた。そこで、天竜川とその支流の流送について見てみたい。

天竜川
明治13年(1880)頃、試験的に川狩が行われていたことがあり、明治20年(1887)には名古屋の商人服部小十郎が三河国豊根村(現愛知県豊根村)から天竜川を流送し、佐久間町で縄止めした後、筏に組んで流送した記録がある。しかし、その後伐採量が次第に増加し、さらに製材、鉱山などの貨物の運搬量の増大によって船や筏の通行量が増えたため、川狩ができなくなった。川狩の多くは秋伐材で冬季に乾燥させて春から夏にかけて流送したが、明治42年(1909)河川取締規定の改正によって、毎年10月1日から翌年3月30日までの期間以外は川狩が禁止された。しかし、この期間は渇水期であるため、業者は出水時に争って川狩したので紛争が生じやすく、また流失の恐れもあった。そのため、天竜川材木商同業者組合が陳情を重ねた結果、昭和3年(1928)になって、河川取締規定が改正され、天竜川の各支流については白木材に限っていつでも川狩ができることになった。
阿多古川
阿多古川の支流は岩石が多く、川狩に苦心したようである。阿多古川沿いで伐採した材木は川狩の後、平田や塩見渡の土場で筏組にして天竜川を流送された。また、山元で木挽した製品や杮板は人車で土場まで搬送した後船積みにして輸送した。
二俣川
二俣川流域の木材はすべて川狩によって流送され、二俣町の南側で筏組にして天竜川を流送された。また製材したものは人車で鹿島まで運び、船積みにした。
2. 堰出し

堰出しは、大正9年(1920)に龍川村佐久に軌道が敷設されるまで行われた。この方法は、丸太で川を横切る堰を作り、川床の砂や杉葉で水漏れを防ぎ、特に丸太と丸太の間の小さな隙間には苔を詰めた。その下流に丸太を溜める「溜」を設け、堰と溜の間を修羅によって川下げする方法である。

3. 筏流し

近世以前は、材木や林産物を運送する方法は筏によったと考えられる。筏の歴史は古く、「日本書紀」や「万葉集」にも見られる。天竜地域における筏の史料は、文明16年(1484)から見られ、筏流しは相当古くから行われていたと考えられる。その構造は、川の水深、屈曲の状況などによって形態・積載本数などが違い、さらに季節によっても操作や運搬力が違っていた。明治30年(1897)以前は黒木、白木とも山元で造材され、角造材にすることが多かったので、角材で筏を組んだ。しかし、下流に製材工場が発達するようになった明治40年(1907)頃からは丸太のまま筏を組んだ。昭和初期の天竜川筋の筏は鴨筏、気田川筏、土場筏、本流筏、信州筏の5種類であったが、戦後は本流筏と気田川筏の2種類になった。筏の回漕は、昭和27年(1952)でも天竜川流域に筏師が319人おり、かなり盛んであったが、昭和29年(1954)には船明回漕店が解散し、筏の回漕業は終了した。

【天竜川の河川交通】

天竜川は急流が多く随所に難所があるため、船運は江戸時代まで発展はなくせいぜい短区間における小船の通船があった程度であった。しかし徳川家康により、慶長12年(1607)、京都の政商角倉了以に信州から掛塚までの舟路開発を命じ、河川改修が行われた。その結果、天和元年(1681)頃になると角倉船が普及し始め、北遠山間部からの物資輸送が行われるようになった。明治時代に入ると、経済の広域化が進み、人や物資の動きが盛んになり、江戸時代から続いた馬や人足に頼っていたのでは輸送量に追いつかず、車両輸送の必要が生じてきた。しかし、車の通る道はなかったので、道路の整備を図りながら従来の河川による交通がさらに要求されるようになる。そのため、河川を利用することの危険性や運搬の効率化を図るために水路の浚渫や船の改良が行われるようになった。天竜川の水路の改良は明治から大正にかけて、天竜川材木商同業組合などによって行われた。明治時代には、鵜飼船、角倉船(高瀬舟)、五分差波船、七分差波船、大七分差波船などが使用されていた。天竜川の河川交通は明治20年頃から増加の一途をたどり、明治末期に最も隆盛を極めたが大正時代に入り、陸上交通の発達とともに減少し始める。対策として、プロペラで推進する高速の飛行艇なども導入したが、河川交通の衰退は止められず、輸送量は減少し続け、佐久間ダム(昭和31年、1956)や秋葉ダム(昭和33年、1958)が完成するに至り、完全に終息した。

【沢沿いの帯状広葉樹林】

これらの一部は土砂流出防備林や水源かん養保安林に指定されている。しかし、沢沿いに広葉樹が帯状に残った背景は、土壌が未発達であること、降水量が多いため、例えスギやヒノキを植栽しても大雨の際苗が流されてしまうなどの地形的な要因により、結果的に残ったものであり、特に人為的な影響によるものではない。しかし、これら沢沿いの帯状広葉樹林は、天竜川流域でも特に地形の複雑な静岡県磐田郡龍山村瀬尻地区から佐久間町山香地区にかけてのみ見られるもので、特徴的なものといえる。

【防火帯】

静岡県磐田郡龍山村瀬尻地区は針葉樹人工林が大半であるが、その中に白倉山の尾根筋に20−30m幅の防火帯としての広葉樹が残存している(写真○○参照)。これは、金原明善が明治時代に多く発生した山火事対策として、植林することなく残した広葉樹の防火帯の一部である。しかし、他の場所は民有林であったため、戦後に針葉樹人工林化されてしまい残っていないが、白倉山は、国有林であったため、植林が行われることなく、残ったものと考えられる。

(2)景観に影響を与える森林施業体系

ⅰ)森林施業体系に影響を与える要因

天竜林業地域でスギ・ヒノキの人工造林が発達した第一の理由は、金原明善が静岡県磐田郡龍山村瀬尻の御領林に大規模な献植をしたことによる。第二の理由は気候的な条件にある。前述のように天竜地域の年平均気温は12‐16℃であるが、その大部分は14‐16℃であり、スギ・ヒノキの生育に非常に適した温度条件である。スギの生育に最も大きな影響を持つ条件は降水量であるといわれているが、年間降水量2,000‐2,500mmは、他の林業地と比較しても遜色がない。さらに、4月から10月までのスギの成長期の降水量が年間雨量の80%に達していることに加え、湿度も平均年75%、成長期に80%以上を示しており、スギの生育に非常に好適な環境である。第三の理由は地質的な条件にある。スギは古生層地帯において生育しやすいといわれている。天竜地域の大部分は古生界、及び結晶片岩に属し、中でも緑色片岩は石礫を含む透水性と通気性に富み、スギの生育に極めて良い土壌を形成している。第四の条件は、静岡県の三大苗木生産地の一つである浜北市が隣接していることである。天竜地域内には、平坦地が少なく、吉野林業同様、育苗には不利である。しかし、畑地が多く、その土壌が苗木生産に適していた浜北市では、早くから、果樹や苗木の生産が行われてきた。特に苗木生産は天竜林業地域と共に発達し、昭和30年代には山行苗の生産だけでも年間600万本を超え、天竜林業地域以外にも販売を行っていた。以上のような理由から天竜地域は、人口造林地として発達してきた訳である。

ⅱ)森林施業体系

次に天竜林業地域に現在広がっているスギ・ヒノキの人工造林地の景観に大きな影響を持つ施業体系を振り返ってみたい。江戸時代の初期造林期には、1町歩(1ha)あたり1,000‐1,500本の植栽が行われていた。明治から昭和にかけては、極めて疎植であった。これは疎植による疎林木の著しい成長を促すのが有利であるという見方と、農家が経営する植林地については肥料や馬糧として採草する必要があったからである。各市町村により植栽密度に差はあるものの、おおむね1町歩あたり1000−2500本くらいであった。金原明善による瀬尻の献植事業では、吉野林業の施業体系に習い1町歩あたり7500本くらいの植栽を行っていたが、2、3年後には疎植となり約3000本としている。この頃、学者は吉野式密植を唱え、民間では従来の疎植を主張し、論争になったことがあった。しかし、吉野材は高級品、天竜材は樌板などの建築材として大量に使用されるので安価でなくてはならない、したがって、従来の疎植でよく、吉野式の密植に変えることはないという結論になったようである。そのため。間伐の必要はなく、劣勢木や被圧木を除去する程度であった。その後、昭和初期から昭和10年にかけて、以前よりやや密職となり、昭和30年代には植栽密度は2,000‐3,000本/ha程度と比較的粗放的な森林施業でスギやヒノキの一般材生産地域として発展し、今日に至る。現在の天竜林業地域の施業体系には、技術的な特徴は見られない。しかし、総面積94,386haに対して、森林面積は86,067ha(林野率91%)であり、うち民有林は68,000ha(森林面積の79%)、民有林の人工林率は81%にも達しており、その人工林率の高さが特徴といえ、天竜地域の景観に大きな影響を与えている。つまり、他の林業地と比較しても、広葉樹林の少ない斉一な針葉樹人工林の造林地が広がる景観となる。また現在のスギ・ヒノキの齢級構成は、全体の80%近くが戦後に植林されたもので、除間伐などの手入れを必要とするⅢ齢級(10−15年生)からⅦ齢級(30−35年生)が約40%を占めること、明治中期より本格的に植林が始まったため、他地域と比べて高齢級林分の割合が高いこと(Ⅷ齢級35年生以上:55%)、また今日の日本の林業の現状ゆえにⅠ/Ⅱ齢級(0−5/5−10年生)の占める割合が5%弱と低いことなどから、その景観は針葉樹人工林とはいえ、柔らかなテクスチャアを見せる。小規模の林家を主体とした民有林が多いが、先進林業地では珍しく,森林組合が核となって地域林業の振興に取り組んでいるため、森林組合への加入率が高く、特徴といえる。5森林組合(天竜市、春野町、龍山村、佐久間町、水窪町)の組合員数は8,148人で、県下組合員数の27%を占めている。組合加入率は95%と、県平均39%に比べて非常に高く、組合員所有森林面積は約65,000haで、民有林の96%を占めている。このような森林組合への加入率の高さに加え、不在村者所有林の少なさにより、天竜林業地域の人工林は他地域の人工林のように荒廃することなく、しっかりとした施業計画や手入れを行うことが可能であったために、急傾斜地に至るまで斉一なスギ・ヒノキ林の広がる景観が維持されてきたものと考えられる。

ⅲ)天竜林業地域と他の林業地域(吉野林業と日田林業)の比較

まず、各林業地の施業体系は下表のようにまとめられる。

表○○:各林業地の施業体系

図○○:天竜林業と吉野林業のスギ生産施業比較

各林業地の景観を見ると、天竜林業は吉野林業と似ているが、日田林業とは大きく異なる。しかし、その施業体系を見ると、天竜林業は吉野林業よりむしろ日田林業に近いといえる。林業地の景観はその施業体系から受ける影響が最も大きいと考えられるが、これらの林業地ではその関連性が見られない。この矛盾を解く鍵は、林業地の齢級構成にあると考えられる。そこで、各林業地の齢級構成の比較を行ってみると、出典が異なるため、明確な比較はできないが以下のようになる。

表○○:天竜林業の齢級構成(平成10年)

図○○:吉野林業の齢級構成

図○○:日田林業の林齢別林地面積(平成9年)

これらから、推測されることは、天竜林業と日田林業はその施業体系は似ているが、その齢級構成が異なるということである。前述のように、天竜林業地域は明治中期より本格的に植林が始まったため、他地域と比べて高齢級林分の割合が高く、テクスチャアがやわらかくなる。一方、日田林業地域は九州大分県という温暖多雨な気候であり、林地が肥沃なことなどから、スギの成長に非常に適しているため質より量を狙った林業を行っているため、伐期が35−40年と短いく、テクスチャアは整然としたものになる。そして、吉野林業は、その長伐期林業という性格から、その齢級構成は高いものとなると推測され、テクスチャアもやわらかくなるのだろう。このように考えると、天竜林業と吉野林業の景観が似ていて、それらと日田林業の景観が異なるのは、その施業体系というよりも、齢級構成によるものと結論づけられる。また、齢級構成だけでなく、表2にもあるように、樹種構成が、天竜林業と吉野林業はともにスギの割合68%、日田林業はスギの割合85%と異なっていることも景観に影響を与えていると考えられる。

また、テクスチャアに関しては、天竜林業と吉野林業は似ているが、人工林の面的な広がりに関しては、差異が見られる。ⅱ)森林施業体系で述べたように、天竜林業は森林組合加入率の高さや、不在村者所有林の少なさにより、斉一な人工林の景観が広がっている。一方、吉野林業は、その特徴として不在村者所有林の割合が88%と高く、山守制度といわれるものが発達している。これは、山林の村外所有者への移行にともない生まれた管理組織である。森林の所有が村外に流出するのは、地元住民の個人所有林が売却された場合と、集落共有林がまとまって売却された場合の2種類がある。元来、個人所有林の所有権売却の場合は旧所有者がなるのが一般的であり、集落共有林売却の場合は集落の有力者がなる場合もある。山守は一種の管理権であり、一般に村外所有者が、山林所在の地域住民の中から信用のある者を選び、保護管理を委託した人のことである。山守は所有者に代わって人夫を集め、これを指揮管理して森林の撫育を進める。立木一代の管理報酬として日給・月給などではなく、立木伐採時に3−5%が山守料として支払われる。また、慣例として立僕は優先的に販売され、木材流通にも従事する。山守の職務は、山林の保護管理から植栽手入れ、間伐等の労務及び資材の調達・労務者の指揮管理まで及び山林所有者の伐採決定にも林業経営・林業技術の実際を担当している山守の発言は大きく、山守制度は森林を経営していくうえで山林所有者・山守双方に利点があり、実質かつ有効に機能している。このように吉野林業では、天竜林業と異なり、山守制度が発達したため、ある村外所有者の林分を見ると、山守により施業が十分になされたスギ・ヒノキ人工林を呈する。しかし、その隣にある林分は別の村外所有者のものとなるため、同じ山守が管理していることはあっても、施業計画は異なってくる。そのため、各所有者の林分ごとに見れば、山守により良く管理された人工林の景観となるが、林分ごとのまとまりは生まれない(写真○○)。そのため、吉野林業の人工林の景観では、天竜林業と異なり、所有者の林分界が景観として現れてくるという特徴を持ち、その点において、天竜林業と吉野林業の景観は異なっていると言える。

(3)集落と農業景観

現在の天竜地域を歩くと、河床から数十メートルの高さの山腹緩斜面に集落と茶を中心とする耕地が点在する景観を目にすることができる(写真○○参照)。これは天竜川流域でも静岡県磐田郡龍山村瀬尻地区から佐久間町山香地区にかけてのみ見られるもので、この地域特有の景観である。また、これらの地区以外にも高地に集落や耕地が点在するという山地特有の景観が見られる。そこで、本項目では天竜地域の集落と農業に関する歴史を追い、現在のような景観となった背景をみてみたい。

ⅰ)山間部における農業の展開

天竜地域では、早くから焼畑農業が営まれていたことが知られている。詳しい  史料はないが、享保年間(1716−1735)には既にかなり広範囲で行われていたことがわかっている。山地所有者は火入れがすむと、援助を受けた村人に焼畑の一部を配分し耕作させ、山年貢としてその収穫物の一部を受け取っていたようである。作付け作物は粟、稗、蕎麦、芋などであった。こうして得られた作物は山間農民の自給食料であり、主食であったと考えられる。このように焼畑農業の小作人は、耕地所有の地主に依存して、不安定な生活を続けていたので、一般農民は農閑期に雑木山に入って薪炭類や肥料となる柴をとり、現金収入を計った。これらを考えると、食料生産源の焼畑と、薪炭などの現金収入を得る雑木山はともに山間農民の生活基盤であった。しかし、山地所有者が年貢の上納に困るようになると、焼畑地を売買したり、前述のような山林の年季売買が行われるようになった。このように弱齢の立木が高く売れ、立木担保で金を借りられるようになると、山林の価値が当然高まり、その結果、今まで山地であったところでも、林業に適した運搬に便利な川に近い斜面は、林地化していった。そのため、焼畑地は当然次第に奥地へ後退し、高度的にも上昇していった。しかし、人工造林には多額の費用と時間を要すること、天竜地域のように耕地面積の少ないところでは食料不足のため焼畑農業への依存度が極めて高かったので、人工造林への動きが全面的に急展開することがなかったのは前述のとおりである。龍山村では、焼畑を維持するために植林を制限し、雑木林のまま山地に残しておくという処置がとられたほどであった。このような焼畑農業は、水窪町のような北部山岳地帯では昭和20年代まで行われていたようである。明治時代に入ると、明治5年の耕作の自由と土地の永代売買、明治6年の地租改正などにより、農家はそれまでの自給自足的な生活から作物を制限されることなく、自由に栽培できるようになるなど、江戸時代からの封建的な小作制度が解体され、農家本来の自作農による農業経営の基礎が確立され農業の民主化がはかられた。さらに、戦前から戦後を通じて昭和40年頃までは、主要食料の確保が目的であったが、その後農業の基礎的構造改善による農地の有効利用と農業機械設備の導入、栽培技術の向上、品種改良などによって営農規模が拡大され、農業の近代化が進み、今日に至る。

ⅱ)商品作物、茶の栽培史

一方、商品作物についてみると、江戸時代初期には茶、綿、紬などの作物が既に広範囲に栽培されていたことがわかっている。茶はタイ、ビルマ、インドから中国雲南省が原産地で、日本には遣唐使や中国への留学僧が持ち帰り伝わったといわれるが、日本各地の山間部にも自生していた。静岡県では天竜川や大井川、安倍川沿いの山間部に自生していたことが確認されている。今日でも静岡県の名産品である茶は、他の作物ほど世話を必要とせず、山間の傾斜地でも栽培できたので、どこの村でも自家用以外に商品作物として栽培され、農家の貴重な収入源となっていた。このような傾斜地では石垣を積んで階段状にして傾きを緩やかにするという工夫も見られる。また龍山村や佐久間町など山間部ではその地形状霧が発生しやすく、日照を和らげ茶の質をよくするため、栽培に適していた。江戸時代後期になると、換金作物としてますます茶製業が盛んになり、青山家などでも広範な取引を行うようになった。幕末には、茶の売上高が、一村平均11両にもなったという史料があり、茶の収入がいかに重要であったかがわかる。安政年間(1854−1860)には、茶は問屋を介して船で大量に江戸に売却されていたことがわかる。

しかし、茶業が本格的な展開を見せる契機となったのは、安政6年の開国後に茶が主要な輸出品として、注目されて以降である。日本からの輸出品の第一位が生糸、第二位が茶となった。そしてさらに天竜茶が広く栽培されるようになったのは、明治以降である。明治4年に勝手作が解除されると、茶の栽培は急激に増加した。そして、山林原野の開墾による栽培面積の増加、栽培法や製茶技術の進歩によって、生産量、品質、収益とも急増していくこととなる。この頃には製茶営業を許可制にすることで、粗悪茶を製造する者や、悪徳業者を排除し、茶の品質を高めようとしていた。しかし、実効性がなかったため、明治17年(1884)製茶営業者を現地で統制するための組織として茶業組合が設立された。また製茶の品評会や製茶職人の技術コンクールを開催するなど、茶生産の発展をはかっていった。明治32年(1899)に清水港が開港されてから、静岡茶は両、価格、作付反別ともに国内の首位を占めるようになり、大正10年には全国の輸出量の80%強を占めるようになった。

しかし、昭和16年(1941)に太平洋戦争が始まると、輸出ができなくなった。さらに戦時体制に入り、自由経済から統制経済に変わると、茶は不急作物とされ、食料増産用に転用された。さらに昭和20年にかけて、生産は減少の一途をたどる。しかし、戦後GHQが食料や肥料、資材などの輸入品の見返りとして茶を指定したため、輸出量が増加していった。さらに静岡県が戦時中荒廃した茶園を復興するための計画を立てるなど、食料事情の安定とともに生産は復活していった。また、その他にも和紙の原料となる楮や三椏、桑なども栽培に適していたため古くから栽培されていたが、需要の減少や絹生産の減少などにより、大正、昭和期に減少の途をたどり、現在では栽培されていない。また、シイタケもかつては盛んに栽培されたが、シイタケ原木の枯渇や価格低下、サル害などで衰退傾向である。

現在は、天竜地域(天竜市、龍山村、春野町、佐久間町、水窪町からなる北遠地域)の全耕地面積(1311ha)に対する茶の耕地面積(821ha)の占める割合が62.6%と高く、また農業生産額に占める茶の生産額の割合も37%(13.8億円)と高く、茶が天竜地域の農業経済の中心作物となっており、静岡県内でも質の高い茶を産出している。今日では、品種改良や機械化で大面積栽培が可能となったため、牧ノ原など平地での生産量のほうが大きくなっているが、それ以前は天竜地域がひとつの産地であったのだろう。また茶は近年の作業の機械化に伴い丸く刈りこむのが一般的であるが、天竜地域の茶には平に刈りこんでいるものが見られる。これは霜害を防ぐためということであり、特徴的であるといえる。(写真○○)また、茶以外では、中国野菜を中心とする野菜栽培とシキミなどの花卉栽培が行われている。

ⅲ)山腹集落と茶畑の関係性

最後に、静岡県磐田郡龍山村瀬尻地区から佐久間町山香地区に点在する山腹緩斜面の集落は、一説には鎌倉時代や戦国時代に信州や遠州に逃れた落人が、尾根筋からも川筋からも見えない山腹斜面に住みつき、その子孫の集落であるといわれており、蔵には当時の武具なども置いてあるとは、龍山村森林組組合長、守口定介氏の弁である。一方、より一般的に地形との関係で見ると、両地区は前述のように特に複雑な地形を呈するため、天竜川流域の他の地域のように川沿いは谷底平地や河岸段丘のような侵食・堆積作用で生まれた平坦地はほとんどなく、また山の傾斜も大部分が30°以上の急傾斜地であるため、散在する10−20°の山腹緩斜面に集落や耕地が発達したのである。しかし、これらの緩斜面の広さは最も大きいものでも500m四方に過ぎず、大部分が大部分である。また、このような地形条件のため、このあたりでは、過去の地すべりによって生じた緩傾斜地でさえ、日照と土壌に恵まれていれば、集落や耕地として積極的に利用されている。両地区では、他の地域に比べ、耕地面積に占める商品作物、特に茶の割合が大きい。これは、耕地の自然条件や一戸当り耕地面積が狭いこと、交通の便や茶の栽培に適した霧の発生の多いことなどとの関係から、単位面積当りの収益の最も多い茶が望ましいからである。こうして、この両地区特有の山腹斜面に小規模な集落と茶畑が一体となった景観が点在するようになったのである。

概要にもどる

4.参考文献・参考資料・参考URL・ヒアリング調査

【参考文献】

  • 技術的に見た有名林業:日本林業技術協会 昭和36年発行
  • 林業不況下におけるスギ産地の林業経営の実態−静岡県龍山村・高知県梼原町の事例を中心として―:農林金融1999.4
  • 天竜市史(上巻・下巻):天竜市史編さん委員会 昭和56年
  • 佐久間町史(上巻・下巻):佐久間町役場 昭和47年
  • 天竜林業発達史:林業発達史調査会 1956年
  • 静岡県木材市史:静岡県木材協同組合連合会 1968年
  • 天竜川〜治水と利水〜:建設省中部地方建設局浜松工事事務所 1990年

【参考資料】

  • 地形図
  • 地質図
  • 植生図
  • 空中写真
  • 施業、管理計画関連図

(北遠農林事務所より)

【参考URL】

  • 天竜林業の紹介 http://www.inakax.com/hokuen/forestry/f1.htm
  • 北遠農林事務所 http://www.pref.shizuoka.jp/nousei/ns-34/noringyo/index.htm
  • みんなの森データ編 http://www.minnanomori.com/index.html
  • 静岡県茶商工業協同組合 http://www.siz-sba.or.jp/kencha/member/tenryu/

【ヒアリング調査】

  • 龍山村森林組合組合長:森口定介
  • 龍山村森林組合組合参事:青山典弘

(2002.12.17 龍山村森林組にて。敬称略)

概要にもどる

2002年 千木良泰彦、三谷仁史、加藤麻理子

現地調査日程 2002年12月8日〜10日

HOME 調査事例 天竜(詳細)
published on 2008-3-26
©2008 Laboratory of Forest Landscape Planning and Design
東京大学大学院 農学生命科学研究科 森林科学専攻 森林風致計画学研究室