4.埼玉県・三富

(1)地域の概要

1)立地

範囲

埼玉県三芳町及び所沢市にまたがって広がる三富新田は、上富(かみとめ)、中富(なかとみ)、下富(しもとみ)の3地区からなり、上富は三芳町に、中富(なかとみ)と下富は所沢市に位置する。

地勢

三芳町は首都圏30kmあたりの、埼玉県入間郡の南部、武蔵野台地の北東部に位置する。東経139度31分、北緯35度50分、海抜は37.5km前後、その形状は東西6.9km、南北4.2kmにわたる。

2)自然の概況

地質

関東ローム層に覆われた洪積地帯。西から東へ緩やかに勾配をもって広がる、おおむね平坦な台地である。

気象

太平洋岸気候区に属し、冬は北西の季節風が強く、湿度の低い晴天の日が続く。4 月から5月頃の晩霜により、農作物に被害をもたらすこともある。夏はかなり高温で湿度も高く、しばしば雷雨がある。年間平均気温は14.1度、降雨量は1300mm強となっている。

3)社会・経済の概況

人口

三芳町の人口は、平成11年4月1日現在で35,683人、世帯数は12,589世帯となっている。

産業

関東ローム層に覆われた洪積地帯の土壌の特質を生かして、根菜類の主産地として発展してきた。平地林は農用林、薪炭林、あるいは用材林として機能し、落葉で堆肥を作る資源循環型農業が営まれてきた。工場誘致をしてからは、工業団地、流通基地、高層住宅の進出による都市化の波に襲われながらも、農業生産性はかなり高く、農家1戸当り並びに耕地10アール当りの生産農業所得は、県平均を大きく上回る近郊農業地域である。

沿革

原始・古代

三芳町の曙は約27000〜26000年前の旧石器時代にさかのぼることが、県内最古といわれる「藤久保東第二遺跡」から発掘されたキャンプ跡や石器によって明らかにされた。また、藤久保の「保埜遺跡」からは縄文時代の竪穴式居跡や土器が、竹間沢の「本村南遺跡」からは弥生時代の方形周溝墓などが発掘され、当時の生活の様子を現在に伝えている。また、平安時代になると、みよし台一体には瓦や壷などを焼く窯が築かれた。ここで焼かれた器の中には「福麿」と刻まれたものもあり、この町内最古の文字で表された人物は、当時のこの地方の有力者と考えられる。

中世・近世

鎌倉時代から室町・戦国時代の武蔵野は見渡す限りの原野だった。鎌倉武士が馬を走らせたとされる「鎌倉街道」が藤久保と竹間沢にあり、竹間沢には中世を思い起こさせる文化財や地名が残されている。三芳の地域が本格的に開発されたのは江戸時代に入ってからで、徳川家康の関東入国以降、武蔵野台地の開発がすすみ、原野にも開墾の鍬が入れられた。元禄7年(1694)、川越藩主・柳沢吉保による「三富新田開拓」が実施されるに及び、三芳の旧4カ村が成立するに至った。

近代・現代

明治22年(1889)4月1日の町村制施行により、上富村、北永井村、藤久保村、竹間沢村が合併して三芳町が誕生した。以来、長期間にわたり純農村地帯として歩んできた。しかし、昭和40年代から高度経済成長とともに首都近郊のベットタウンとして、また、首都圏の流通基地として目覚しい変貌を遂げ、人口も急増し、昭和45年(1970)に町制を施行、今日に至っている。

三富新田の開拓の歴史(図1,2)

今から約6500年前、気候はもっと温暖であった。氷河が溶けて海水面は3m以上も上昇したため、三芳町のあたりまで海が進んできた。しかし付近にはたくさん発見された遺跡も三富新田のある上富地区では見つかっておらず、当時からこのあたりは水のないやせた土地で一面にススキや茅の生い茂る大草原であった。

江戸時代になっても一部に林があるほかは村もほとんど変わりがなかった。最も近い柳瀬川までも4kmの距離があり、井戸を掘るにしても20m以上掘らないと水がでなかった。周囲が開拓され村々ができても、この場所は入会地(秣場)として共同で利用されるだけだった。しかし周囲が発展してくると徐々にこの地区にも開拓の手が入ってきた。そして利用者が増えてきたため、入会地をめぐる争いが頻発するようになってきた。さらにこの場所は川越藩領と幕府領が入り組んでいるため、争いは幕府の評定所まで持ち込まれた。柳沢吉保が川越藩主になって間もない元禄7年(1694)、この原野は裁判で正式に川越藩の領地であることが認められ、吉保はさっそく一帯の原野を開発しようと準備を進めた。

開発する原野は約1000町歩(1000ヘクタール)あり、川越城から南に三里(約12キロメートル)の距離にあった。はじめに地蔵堂のある地蔵林を中心にしてそれを取り囲むように土地を三つに区切り、まず東西を二つに分け、さらににしがわをほぼ半分ずつに区切った。区切りの道路は幅六間(約11メートル)ほどとし*1、道路沿いに家を建てた。家の後ろ側の土地は細長く短冊状に地割りをし、農家一軒分の土地の間口は原則として四〇間(約73メートル)、奥行は三七五間(約682メートル)と決め、一番奥は雑木林とした。雑木林は三富新田を取り囲む形となり、この地方特有のからっ風防ぐ、防風林の役目も果たした。さらに、一軒分の細長い耕作地の中央には、家と耕作地を往来するために耕作道を通し、道の両側には一反歩(約991.7平方メートル)ごとに区切られたと考えられている*2。

当時の農民にとっては、新田開発を行い、自らの土地を保有するのはまたとないチャンスであり、入植者は川越・名栗・膝折・高麗・箱根ヶ崎・入間川などからやって来たほか、群馬・山梨などの遠方の山がちな地域からやって来た人もあったという。

*1この広い道路は防火のためであった。乾燥した土地は一度火がつくと広大な面積を焼き尽くしてしまい、消火のための水がない場合、延焼を防ぐには燃えるものがない地帯を作ることが効果的であった。

*2荒れた土地だったので、一軒あたりの畑の面積を広くして、できるだけたくさんの作物を育てようとした。

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(2)森林景観の特徴

全体の構造(図3)

開拓農家は道路に面した所に家を建て、周りを屋敷林で囲む。土地の反対側の端は雑木林にし、屋敷林と雑木林の間が畑になる。隣の土地との境界線には当時ウツギ、後にはお茶の木を植えた。農家一軒当りの土地はだいたい幅40間(73m)、奥行375間(682m)で、一区画約5ha。(図4参照)

このあたりは、①台地であり川も少なく水の便が悪い。②火山灰の降り積もった関東ローム層であり土が飛ばされやすい。③風が強い上に、その風を遮るような森も無い。そのため、とてもやせた土地であった。このような過酷な環境を豊かな耕地にするための工夫が結集した結果が今の三富の姿である。屋敷林や雑木林、それに畑の間の木々は風を防ぎ大切な土が飛ばされないようにする役目を果たし、全ての農家の土地はほとんど同じ構造になっているため、木が開拓地全体を囲むことになるのである。

図4 一軒分の屋敷割

*屋敷林(写真1,2)

中心部の作業スペースに面して家や作業小屋を建て、それらを守ってケヤキ、スギ、ヒノキ、カシ、タケ、クリなどの家や道具の材料になる木が主にバランスよく植えられている。また、屋敷林は防風および防砂機能がある。

ケヤキ、スギ、ヒノキ-家の材木として柱・敷居・桟などに利用される。また材木としての商品価値もある。

カシ-常緑樹であり火に強いため防火の役目を果たす。蔵の前に壁状に整形されている例もある。またカシの実は「じんたんぼ」と呼ばれており、飢饉の際には貴重な食料となった。

タケ-タケノコとして食料となる。また地面にしっかり張った根は地震の被害を食い止める。他に、かごなどの日用品の材料としても欠かせない。

クリ-食料のほか、材木としても水に強く土台部分などに利用される。

*雑木林(写真3,4)

クヌギ、コナラ、アカマツ、ヤマザクラ、クリ、エゴノキ、イヌシデなどで構成されている。ほとんどが落葉樹であり、これらの落葉が大切な肥料となる堆肥の原料となり、大部分が甘藷の苗床醸熱材料として使われていた。同時に材木として利用しやすいものや、薪として利用できるものなど、利用価値が高いものを選んで育てていった。

落葉を集める(クズ掃き・ヤマ掃き)時にはまず下草を刈り取る。この時、自然に発芽した余分な若木も同時に刈り取る。これを怠ると人が入れないほど笹などが繁り、だんだんクヌギなどの落葉樹が育たなくなる。薪にする木を切る時は、20年ほどたった木を選び、苔のついてる部分を残すように切る。こうすると切り株から若木が何本も発芽し、また根がしっかり張っているために再生が早い。本来このあたりは常緑硬葉樹林帯であるので、せっかく育てた林も手入をしないすぐにその姿を変えてしまう。そのため、このように雑木林を利用することは同時に維持にもなっているのである。

*畑(写真1-4)

三芳町一帯は水が少ないため、三富新田には水田がない。米は畑でできる陸稲であるが、ほとんどが自家消費用だったので、年貢をおさめるためには商品作物を作り、現金を得る必要があった(畑の場合は金銭で年貢を納める)。当時の作物は、穀類、果菜類、根菜類などがあげられる。特産のサツマイモや畑の境に植えてあるお茶の木は、冬の間畑の土が飛ばないように役立つ。サツマイモのつるは、乾燥するとかまどの燃料にもなり、かまどなどの灰は畑に戻される。お茶の木は風除けにも商品にもなるといったように、この土地では自給自足を目的とした高度なリサイクルシステムが成り立っている。

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(3)森林景観の管理と特性

1)法制度

長期間に渡り純農村地帯として歩んできた三富新田であるが、昭和40年代から高度経済成長とともに首都近郊のベットタウンとして宅地化の波が押しよせ、人口が急増し、緑地が大幅に減少していった。都市的施設への転用は1959年の工場誘致条例により行われたものが多く、1969年に同条例が廃止されてからは、市街化調整区域指定(1970)、農業振興地域指定(1973)に守られ、大規模な転用は行われていない。昭和54年(1979)に身近にある緑を保全する条例として、「ふるさと埼玉の緑を守る条例」が制定され、その後この地域は、埼玉県指定旧跡「三富新田開拓地割遺跡」として、その景観保存が図られている。

県では、「埼玉県土地利用基本計画計画書」の中で、三富新田の平地林に対して、その保全と整備を図るとともに、自然とのふれあいの場や青少年の教育の場としての利用にも配慮した整備を行う、と述べている。

2)維持管理

現在では雑木林-平地林の管理は、主として林床の維持管理に必要な下刈や落ち葉かきなどである。これは市街地縁辺部においては地域内農業従事者あるいは地域外農業従事者が行っており、林床は極めて良好な状態で維持されている。しかし、1950年代からは一部に不燃ごみの投棄場所と化し、あるいは倉庫用地に変わってしまったために、林床管理が行われないままの放棄地化傾向が強くなってきている。わずかに、私的な管理から自治体や市民の自主管理に移ってきたところも見受けられる。

三芳町の取り組みとしては、落ち葉掃きなどを通じた三富の農業の体験会や、子供達を対象に当時の暮らしを体験するジュニア三富塾を開催するなど、主に教育委員会が中心となって積極的に地域の住民と共同しながら三富新田への理解を深めるため様々な催しの機会を設けている。

3)現状

列居型の屋敷、畑地、平地林のパターンが近年崩壊し始めている。これは、経営規模の縮小や相続税の問題による離農などに際して、農地が工場や倉庫などの都市施設あるいは宅造などの非農業用途に転用されてしまっているためである。三富の地割構造は、中央に道路を配することによる小規模な低質住宅化が容易に行われる道路条件なのである。このことは、景観上のスプロールの原因にもなっている。都市化のインパクトの強い関越自動車道東側では、土地利用の規則的配置がくずれている箇所が多く見られるが、これに対して関越自動車道西側では、武蔵野新田集落の列居村の形態がよく保持されており、各農家の背後に立地する平地林の連続が残っている。

4)今後の課題

都市化の波に襲われ雑木林がどんどん失われている現状において、今後武蔵野の景観を特徴づけているともいえる、この三富の雑木林を維持保存していくためには、やはりその存在を認識し、積極的に利用していくことが必要である。都会ではどんどん自然が失われている昨今、雑木林の存在は非常に貴重であり、最近では雑木林の価値が再確認され、環境教育の場として注目をあびている。これからもそういった形で利用することを通し、維持管理に努めるべきであると考える。

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1998年 山本真理

平成9・10年度文部省科学研究補助金 基盤研究(B)(2) 研究成果報告書(平成11年6月)より

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published on 2008-3-26
©2008 Laboratory of Forest Landscape Planning and Design
東京大学大学院 農学生命科学研究科 森林科学専攻 森林風致計画学研究室