2.大分県・日田

(1) 地域の概要

1) 立地

日田林業地域は筑後平野のほぼ中央を東西に貫き久留米・大川などの消費地を結んで有明湾にそそぐ筑後川の源流地帯に位置する。筑後川流域地帯で主として支流三隈川、大山川の流域に属する。

日田林業は大分県日田市・日田郡(前津江村・中津江村・上津江村・大山町・天瀬町)の1市2町3村の総面積約66610haにわたる林業地帯のスギの林業地をいう。1,000m級の日田郡の山々と、国土庁から「水の郷百選」の一つにも選ばれた水郷日田の日田市からなる。広い意味では阿蘇の北側の外輪火山地帯で、日田市を中心に阿蘇山、英彦山、九重山等の山々に囲まれた、玖珠郡、熊本県阿蘇郡小国町、福岡県八女郡・浮羽郡・朝倉郡なども含めることもある。

日田地方の杉は、巨木で知られる鹿児島県屋久島の屋久杉、宮崎県日南地方の 飫肥(おび)杉とならんで、九州三大美林として有名である。日田林業の特色は恵まれた自然と社会の元に、1887年頃から急速に発展したスギの一般用材を大量に生産する育林業であるとともに、またこれに付随して興った製材業や下駄そのほかの木工業を同じ地域内に包括しているところである。

図-1 日田地域位置図

2) 自然の概況

①気象

日田林業地は九州で最も大きい被害を及ぼす台風禍からは安全な地域である。しかも梅雨前線の活動による大雨被害も回数は多いが、その被害は比較的軽微である。梅雨前線の活動によって7月に雨が多いことはスギの挿し木には好適な条件であり、日田地方にスギの挿し木林業が発達したことはこの自然の恵みに答えたものともいえる。

1901年から1953年までの日田市の年平均気温は15.5℃、年降水量は1776.2mm、1997年は15.1℃、1768mmでほとんど変化はない。また、中津江の年平均気温は13.5℃、年降水量は2314mmである。

気象の特徴は

・ 霧が深い(温度が高く、霧が多い)

・ 降水量の割合に降水日数が多い

・ 夏期の雷雨回数が多く快晴日数は少なく、空中湿度が高い、などである。

②地質

阿蘇火山系の安山岩を主とし、その上を同じく阿蘇火山の噴出物である凝灰質壌土が覆っている。基岩は第4系洪積層系および新第3紀系安山岩を主とし流紋岩の地域も多い。土壌は厚くはなく、岩石も多い。

③植生

日田地方の総面積は約66610haで1963年の土地利用では林野率は84%を超え著しく高いが、耕地率は低く7%あまりである。この林野率のうち原野や牧野の割合はきわめて少なく、林野面積の95%は森林である。その森林のうち92%強は私有林で、公有林および国有林はそれぞれわずかに3%と5%にすぎない。

④地形

日田地方は盆地地形をなし、その中央を貫く筑後川(上流は津江川、大山川、玖珠川、高瀬川、三隈川、小野川、有田川、花月川、大肥川等)の水運に恵まれ、古くからこの地の物資の運搬は舟筏によって行われていた。、陸路の整備は急峻な地形のため比較的おくれて、車道がやや整備され始めたのは明治中期以後である。荷馬車が導入されたのは1904年でそれまでは馬の背や車力などにすぎなかった。

3) 社会・経済の概況

地域の歴史

日田市はかつて徳川幕府の直轄地として九州の政治と経済の中心であった天領でもある。その経済力は、「日田金」として広く九州一円にもおよび、これらの政治、経済力を背景に江戸や長崎等との交流もさかんで、日田独特の町人文化が華開き、今も町のいたるところに当時の名残が散在し、その町並みは日田の重要な観光地にもなっている。

日田地方が私有林の割合がきわめて高いのは天領時代から留山、御林、御藪などの林が少なく、しかも封建下の林野政策が比較的緩やかで農民の利用に任された林野が広大であったことが遠因である。近因として1873(明治6年)の地租改正の際、村内有力者による囲い込みが多かったことがあげられる。

1902(明治35年)、日田町に 県立農林学校 が、1907(明治40年)には 日田郡立工芸学校 が創設された。ともに、現在の県立 日田林工高校 である。 日露戦争 前後に設立されたこの学校は、林業振興と豊富な森林資源を利用した地場産業の育成を目的としたもので、日田杉の産地にふさわしいものであった。日清 日露の2つの戦争は、木材の高価をよび、植林熱は一段と高まった。1906(明治39年)に大分県が実施した「著名ナ山林所有者」の調査(県立大分図書館蔵)には、県内7郡で22人の 山林地主 が報告されている。うち12人が日田郡で、所有面積は合計2,500町歩である。日田地方の大山林地主の形成過程は、『日田林業発達史』によると、①江戸中期から明治前期にかけて、 掛屋(かけや) (幕府 諸藩の公金出納を担当した町人)が集積したもの。②明治に入って台頭した日田や県外の高利貸し資本家や商業資本家によるもの。③天領時代から勢力のあった庄屋や地主たちで、 地租改正 時に農民が放棄した山林や、それまで世話をしていた山林を囲い込んだもの、などである。1914 (大正3年)にはじまる 第一次世界大戦 は、造船ブームとなり木材の需要が拡大した。1915(大正4年)には1,020石であった日田地方の民有林のうち杉の伐採が、1917(大正6年)には3倍の3,090石、1919(大正8年)には6倍の6,140石と飛躍的にのびた。植林もさかんになり、日田郡内で生産される杉の苗木も1915(大正4年)には65万本、1917(大正6年)には82万本となった。こうした植林に熱心だったのは、山林地主や木材業者たちで、500町歩をこす大山林地主が出現した。大日本山林会の『造林功労者事績』には、日田地方だけで13人の功労者の名がある。戦後の農地改革は、山林を対象としなかった。そのため山林地主の多くは、そのまま残った。

人口

我が国の山村人口の都市への流出が一層激しくなっている全国的な傾向と同じく、過疎の傾向にある

1955(昭和30年)をピークに減少傾向にある。年少人口(0-14歳)は大きく減少する傾向にありる生産人口は減少しているが総人口に占める割合は高くなってきている。一方高齢人口は増加傾向にある。

③産業

日田地方の中心地 日田市は、 下駄(げた) 家具 日田漆器など木工業がさかんである。

日田市は、水が美しく、豊富であることから、近年水に関わる企業が相次いで進出、あるいは進出の計画が発表されているが、中でもニッカウヰスキー、サッポロビール、小久保製氷などお酒に関する企業が目立ち、地元の酒造会社と合わせ「ほろ酔いのまち」とも呼ばれるようになった。

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(2) 森林景観の特徴

日田杉の特徴は、杉 挿木(さしき)苗造林で材木の成長が良く、品種は選抜固定され、やや疎植で短伐期経営である。

樹種の多様性――単一(スギ人工林が85%である。)

混合パターン――均一(一面のスギ人工林である。)

均一性―――――斉一(品種一定で品種の選抜固定がなされている。)

面的広がり―――広い

樹形――――――均一(スギ挿し木苗造林)疎植で短伐期施業である

境界等―――――明瞭

森林資源は55888haの森林面積を持ち96%の53516haが民有林である。民有林のうち78%が人工林で、そのうち85%がスギ林という用材林資源を主体とする木材主産地で、その林相は単純ではあるが雄大な人工美林となっている。

特徴的な景観の見られるポイントは

・奥日田グリーンライン沿線の林相

・津江神社境内のスギ直ざし植林(天然記念物)

・ヨシノスギ原種展示林(上津江村)

・ スギ間伐展示林(上津江村)

写真1〜5 日田地域スギ

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(3) 森林景観の管理と特性

歴史

この地方の文化は有史以前に起こり、またスギ植栽の起源も1491年(延徳3年)の日田郡中津江村宮園にある津江神社境内のスギといわれている。津江城 主 長谷部 信安(のぶやす) が社殿改築の際、植林したものと伝えられている。一般のスギ植栽は享保年間(1716-30年)に日向地方の挿し木法を伝えたのが起こりといわれている。 1778年 (安永7年)に幕府が義務造林の制度を設け、天領 (幕府の直轄地)日田にもその政策が波及したこと、さらに1817 (文化14年)、 日田郡代 塩谷大四郎(しおのやだいしろう) によって杉の植林が奨励され、そのもとで多くの林業家が生まれ、日田杉の基盤づくりがなされた、という。この地方は「ソバ野」といった焼き畑が一般に行われていたので大した費用なしに挿しつけられた。しかし、焼畑などの農地に陰ができるという理由などで、杉植に関する紛争が各地で生じている。藩政時代日田は天領であり幕府の直轄の地であったために文化の進歩が早く、林業知識も比較的はやくから普及しスギのほか一般の紙料も産していた。

明治以後文化経済の発達とともに筑後川の水運も開け、鉄道も開通して木材価格は高騰し、造林が益々推進された。

特に大正に入って第一次世界大戦の頃、我が国の経済の発展は木材価格を騰貴させ造林熱は隅々までわき登り、今日の大林業地としての様相を完成した。

スギの直挿し造林によって行われていたが1889(明治22年)頃から吉野林業の影響を受けて実生苗の造林を取り入れ、1897(明治30年)以降はこれが広く普及した。しかし1915(大正3年)に蔓延した赤枯れ病の被害が多く、挿しスギが耐病性の強いことが認識され、再び挿し木造林に復帰した。その頃からは直挿し造林ではなく、挿し木苗の植栽が行われた。

明治以前までは一部の者だけがスギの人工造林をしていたため、山林の里近くの大部分は切替畑・焼き畑が多く、北面または人里を隔てる山林はほとんど常緑広葉樹を主林木とする天然の雑木林であった。わずかに山嶽の上部界にモミ・ツガの針葉樹があるくらいであった。建築用材は天然林中の有用樹木を主としわずかな人工スギで需要をまかなっていた。しかし1877 (明治10年)の 西南戦争 の兵火は、熊本市街に大きな被害をもたらし、その復興のため木材が高価で取り引きされ、植林がさかんとなった。1982(明治25年)、大分県は林産 蕃殖(はんしょく)奨励費下附規則を設け、1902(明治35年)までの10年間に5,639円を投じて植林をすすめることにした。植林は、杉、松、 檜(ひのき)などで、玖珠 日田 下毛郡などが植林面積も広く、樹種も杉が多かった。また日清・日露・欧州の戦乱ごとに事業熱が勃興し植林事業がさかんになり1921(大正10年)頃には国有林の一部に天然林があるほか肥沃な山林はスギ山とかわった。ヒノキの造林はほとんどなく、アカマツは丘陵山嶽の瘠地を占領し薪炭林に次ぐ面積である。コナラは椎茸栽培木炭製造がさかんなところでは伐採過剰で減少した。大正中期頃の日田地方の山野は原野を除くと約60%が針葉樹林であった。1892(明治25年)頃の針葉樹林は34%という林況であったので約30年間に日田地方の林想は針葉樹林1/3から、2/3に変化した。 スギ人工林率が目立って増大したのは第2次世界大戦後で戦前59%どまりであったが戦後の1949(昭和24年)頃から急速にのびて1967(昭和32)年には76%に増加した。日田地方全体での造林樹種は1955(昭和30年)頃にはスギが大部分で全植栽面積の81%を占め(現在林業地として有名な五和村の三春原は9割)ヒノキ3%、アカマツ7%、クヌギ9%であった という記述もある。

管理

品種

元来日田地方のスギ林は一見して斉一なよく樹形の揃った成長旺盛な林相を呈することが大きな特色であるがそれは挿し木による品種の単純化による。

1887(明治20年)頃にホンスギ、インスギの品種の概念があることはあったが1955(昭和30年)頃まではスギ品種については鈍感であった。これは日田地方が古くからヤブクグリやウラセバルスギのような優れた品種に恵まれていたため、スギの品種の改良にことさら努力をする必要がなかったことによるといえる。ヤブクグリが好まれたのは1.穂を大量にとることができる、2.伸びが良く土地を選ぶことが少ない、3.雪害そのほかの害に強い4.材質が良く修羅だしによる材の損傷が少ない。という点からである。1955(昭和30年)頃から早生系の新品種(ヒノデスギ・モトエスギ・クモトオシなど)が零細な森林所有者に好まれた。日田地方のスギ品種はヤブクグリが最も多く、アヤスギがこれに次ぎ、ウラセバルスギはウラセバルと前津江方面の限られた地域に多い。

(ウラセバルスギは樹齢40〜50年になっても成長が良く、しかもこの樹齢になると幹形に歪みがなくなり、樹幹通直で下枝がなく見事な樹木となるが立地に対する要求が強いので、ウラセバル地方以外では必ずしも成長良好とはいえない。)

植栽

日田地方のスギの造林方法は大きくわけて山挿し造林と苗木(実生苗または床挿し)の植栽造林とがある。

植栽間隔は同じ日田地方でも地利の差や林業経営規模の違いによって異なる場合が少なくなく、また地利や経営規模が同じでも地ごしらえや間作の方法その他社会経済事情の推移(道路の発達やスギ材需要の増大)に伴い時代とともにかなりかわっている。

日田地方は古くから焼き畑が行われそこにスギの疎植をして間作を行いスギの間伐は行わなかった。明治以来1949(昭和24年頃)までの約80年間焼き畑とスギ疎植の組み合わせが続いた。比較的地利の良いところは1haあたり2000本、その他のところは地利の程度やスギの品種や林家の経営規模に応じ1haあたり750〜1700本程度の疎植が行われていた。大局的に要約すると、明治以来1949(昭和24年頃)までの約80年間は疎植(1ha750〜2000本程度)の時代であった。1950(昭和25年)から1haあたり3000本の植栽密度にかわったが、これは主要因として国の造林補助政策、副次的要因として日田地方の道路の整備や食料不足の解消に伴う焼き畑の衰微などがあげられる。haあたり3000本という日田地方としてはかつてない密植にかわっていったがこのような時代の流れにおいても、三春原のようにスギの品種によっては疎植を続けているところもある。

手入れ

明治以来日田スギ林育成の特色であった木場作と疎植の組み合わせが戦後の1949(昭和24年)頃まで続いたので造林地の手入れ法も植栽後1〜3回行えば事足りたが1950(昭和25)年頃からは木場作が激減し疎植が行われなくなったので造林地の手入れ方法は必然的に大きくかわった。他地方と同じように植栽後連年5〜6回、隔年2界程度行われるようになった。日田地方は急峻な地形や比較的豊かな労務事情によって、手入れ作業の機械化はおくれ未だに旧来通りの鎌や鉈による方法が一般に行われている。

枝打ち

明治以来あまり行うものはなく、最後の下刈りの際枝打ちを行いその後放置して自然脱落を待つものが多い。

施肥

1965(昭和40年)頃から地味の悪いところか、あるいは特に林業に熱心な人が行っている程度である。

間伐

木場作と疎植が行われた時代明治以来1949(昭和24年)頃まではほとんど行われなかった。間伐が広く行われるようになったのは日田では1950(昭和25年)頃にhaあたり3000本植えが奨励され、また道路や輸送力が飛躍的に発達してからのことで大雑把にいって1965(昭和40年)以後とみられる。

森林保護

愛林思想が強いので人為の被害は少なく、気象害もきわめて少ない。ウサギや虫害の被害も少なく、スギ赤枯れ病は挿木苗にはほとんど被害が認められない。日田地方は森林被害の少ない地方であるため恵まれた環境である。

伐期

日田地方のスギ人工林の伐期は所有者の資産(林業規模)の大小によってもまた地域の地利やスギ品種によっても異なるので一概には言いがたいが、最も多いのは35〜40年である。

地域的には交通の便の良いところ、地味が良くスギ林の成長が良いところ、小林業家の多いところ、は概して短伐期で、三津江地方といった交通の便の悪いところや地味の悪い大鶴地方などは比較的長伐期がとられていた。

戦後木場作と疎植がなくなり間伐が広く行われるようになって1955(昭和30年)からスギ林の伐期は従来若木で伐るものが多かったものは長くなり、長かったところは短くなった。しかし資産家のスギ林はますます伐期が長くなる傾向が強いので日田のスギ林の伐期は長くなる傾向にある。

元来日田地方のスギ林業は木場作・疎植・短伐期として知られている。明治・大正期の日田スギは20〜30年の短伐期で伐採されるものが約8割を占めていたが、その頃でも大林業家で資産の多い一部の人たちは50年以上の長伐期で伐採していた。

三春原地方は古くから疎植で小林業家は25〜28年の短伐期、大林業家は50年以上の長伐期が多かったが最近では平均して35〜40年くらいで伐期が少し長くなってきている。三津江は昔から管流による運材が行われたので、材の損傷を防ぐために伐期が長くなっていて、小林業家でも35〜40年くらい、大林業家の場合は50〜80年の長伐期であった。

大資産家で経営規模の大きなものの伐期は長伐期で、しかも最近はのびる傾向が強く林齢80年以上のスギ林の割合はしだいに多くなりつつある。大山・天瀬地方では小林業家で30年、普通の資力の人で40年、大林業家は50年以上の伐期である。

「スギ短期育成林業を行う場合、密度管理より、立地環境の違いが成長量の差に大きくあらわれるため、好適立地の選定が重要である。」という報告も最近なされた。

運材

山間部の日田地方は道路事情が悪く、伐採した木材を日田へ運ぶのに岩石の多い小河川を頼った。日田から久留米方面への搬出も、 三隈(みくま)川 筑後川 に頼った。木材の三方を削り板角丸太にして筏に組み川を下した。1914(大正3年)に設立された 日田郡木竹商同業組合 の設立時の予算には、 筏(いかだ)流しのための川 浚(さら)い人夫100人分、50円が計上されている。筑後川の架橋や 井堰(いせき)の工事や、 女子畑(おなごはた)発電所 (天瀬町)の取水のため渇水がひどくなり流材が困難になることもあった。1916(大正5年)の筑後軌道の開通、1932(昭和7年)の 久大線 の開通によって、汽車輸送、トラック輸送が増加したが、戦後の1945-55(昭和20年代)には年間15万石から25万石の木材が筏流しで筑後川を下っていた。筏流しが姿を消したのは、1954(昭和29年) 夜明ダム の完成によってである。1951(昭和26年)に始まる林道整備5か年計画と、その後の林道整備事業によって、日田地方の林道の整備はすすみ、トラック輸送が主流となった。1985(昭和60年)には スーパー林道 奥日田線が開通した。

林産物

主にスギ一般建築材に使われる。

日田地方の製材業は豊富な森林資源と、周辺農山村の豊かな労働力に恵まれて大正以来約50余年間常に日田市最大の製造業の地位を占めてきた。しかし、日田市の製材業は外材や新建材の進出に押され、生産は伸び悩みになり、また、従業員の減少が目立ってきている。

長所として、

品が早くそろい、大量に買い付けすることができる。(比較的安価)

選別がよく規格品がそろう。

短所として

粗悪品がある

高級建築には不向きである

生長旺盛が特徴のため伐期が短く、木理が荒い

家具

筑後川を下って大川地方で家具材となる。

明治維新以後第二次世界大戦終結の頃までの80年間は膨大な木材消費産業であった大川の木材市場への最大の木材供給地野道を歩んできた。しかし1960(昭和35年)頃から日田家具木工業が応接セットの需要増大から激しくのびた。

下駄

日田下駄の起源は日田が天領になって以来、殖産興業の手段として始まったものといわれている。日田下駄は豊富な資材に恵まれ、生産量が多く価格の安い実用品が多いことが特色であった。始まりは桐下駄であったが明治初年頃からスギ下駄ができた。

現在

林業は、植林から伐採まで長い年月を必要とする。しかも、地ごしらえ、植樹、下刈り、枝打ちと長期間にわたって多くの労力と資本の投入を要する。 高度経済成長 は、山林労働力の流出をもたらし、外材の流入や木造家屋建設の落ち込みなどによる木材需要の減退や木材価格の低迷は、林業に生きる地方の社会経済の衰退をもたらした。

日田市は林業振興地域の指定を1987(昭和62年)に受け新林構を主体に各種施策を推進している。林業経営近代化施設整備事業、林業者定住促進事業、広域流通施設整備偉業、国産材需要開発施設整備事業などを設置した。また、日田市は国産材の安定供給体制基地づくりを推進する一方日田材の需要拡大と地場産業の振興をはかるため「日田杉の家建設協同組合連合会による産地直創木造住宅を市内や福岡県に建築している。

また昨今の下流域の水不足問題や、台風による風倒木の処理など、保水機能を持った森林の整備は、流域全体における重要な課題であることから、森林を育て、水を大切に使うために流域全体の調整をはかっている。

1991,1995(平成3,5年)の台風は日田地方に多大な被害をもたらした。

写真-5 台風の跡地

80年生のヒノキ、60年生のスギなど で、山の上の林地が被害にあった。これは過熟で大径木なものが急峻な地形でけっして厚くはない土壌環境という足元が危うい地点にあったためである。さらに台風で残った林木も台風で揺すられ数年後に枯死している。二次的被害として台風の被害でスギ、ヒノキが倒れ明るく広い場所が出来シカの遊び場となり、シカが増え、台風後に植林した若木を食べられる被害も増えている。

1991,1995(平成3,5年)の台風の教訓から「風に強い森づくり」が提唱され、広葉樹造林が実施されている。スギと広葉樹の混交林の機能として、地力維持、風害・火災・病虫害の抑止、土壌浸食、淫岸浸食防止、景観の維持などがあり、災害に強い森づくりを行っている。広葉樹として萌芽更新をし、成長が早いユリノキも植栽されている。

日田スギの景観の特徴は斉一な人工林である。

皆伐は良くないとか、上記のように一般的には混交林のほうが森林の多様性があるので良いと考えられている。しかしあえて残してみるのも良いのではないだろうか。安価な外材輸入での日本の犯した世界各国における乱伐問題や、国産材を使った家具が人気であること(オークビレッジ)などを考えると、今のままの材の値段であるとは言い難い。また上記のように日田では日田スギの家の建築も始まっている。材の性質がそろっている日田スギを見直すときも来ると思われる。

日田スギの斉一の美は、日田地方の人々と自然との関わり合いの結果できたものである。ほかの地でこの日田のような斉一な人工林をつくることができるとは言い難い。この地独自のものである。その森林景観が100年に一度起こる災害に備えるためだけに、失われつつあることは問題であると思われる。

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参考文献

上中作次郎・田内裕之(1989)平成元年度 森林総合研究所九州支所年報

熊本営林局(1957)九州国有林の展望

林業振興地域整備計画制度研究会編(1991)山づくり、むらづくり、人づくり150選

日本林業技術協会編(1972)林業技術史 第1巻地方林業編上

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1998年 辻華欧利

平成9・10年度文部省科学研究補助金 基盤研究(B)(2) 研究成果報告書(平成11年6月)より

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published on 2008-3-26
©2008 Laboratory of Forest Landscape Planning and Design
東京大学大学院 農学生命科学研究科 森林科学専攻 森林風致計画学研究室