「フクギのトンネル」〜沖縄県国頭郡備瀬〜

1.森林景観の特徴

1-1.屋敷囲いの材料として圧倒的な割合を誇るフクギ

沖縄本島北部の他集落との比較(注1)

備瀬集落では、敷地囲いの大部分にフクギが用いられ、特徴的な景観を作り出している。では、備瀬の周辺地域ではどのような状況なのだろうか。既往研究があるので、参照する。

表1.沖縄本島北部地域の集落の敷地囲い材料別比率

集落名 箇所 材料別比率(単位は%)
ブロック フクギ 石垣 生垣
備瀬 外部 20 74   4
内部 17 72   9
外部 80 10   10
内部 65 24   11
楚洲 外部 71     27
内部 64 2   36
安波 外部 38 10 18 34
内部 40 13 13 34
比地 外部 41 9 1 49
内部 34 11 3 52
嘉陽 外部 75 16 1 8
内部 76 6 10 8
安部 外部 51 37 1 11
内部 74 26    
今泊 外部 35 48 1 16
内部 37 43   20

この表のフクギの項目を比較すると明らかなように、備瀬集落は圧倒的にフクギの割合が高く、周囲の集落と比較しても特異な存在であるといえる。

調査地点の位置

図1.調査対象集落の位置

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1-2.フクギのトンネル

トンネル状にフクギ並木が存在する様子を写真で紹介する。

tonnela

図2 並木から海を望む

tonnelb

図3 宅地の囲い の一例

tonnelc

図4 散歩道のルート上より

参考:現地で計測したフクギ並木に関するデータ

特徴的だと思われる地点を7箇所選び、5mの区間をとって下記のデータを計測した。

・道の幅員

・樹高

・フクギの本数(道の両側の平均)

・植栽間隔(最大最小)

・胸高直径

・枝下高

下の図は、調査した地点を表している。

調査ポイント

図5.調査地点

以下、各調査地点の写真である。

pointa

図6.地点a付近

pointb

図7.地点b付近

pointc

図8.地点c付近

pointd

図9.地点d付近

pointe

図10.地点e付近

pointf

図11.地点f付近

pointg

図12.地点g付近

調査結果は下図のとおり。フクギが狭い道幅に数多く植えられている様子がうかがえる。

表2.調査結果一覧

No 調査地点 道の幅員(m) 樹高(m) 本数(本) 植栽間隔(cm) 胸高直径(cm)
1 a 2.5 - 13 10〜50 7〜140
2 b 5.5 - 20 30〜80 15〜60
3 c 2 8.5 8 40〜150 16〜145
4 d 2.4 5.4 15 14〜120 6〜96
5 e 4 6.8 28 10〜110 5〜86
6 f 3 - 17 15〜90 4〜40
7 g 1.9 7.1 15 10〜140 5〜79

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1-3.規則的なパターン

先の項目に挙げた集落の地図から明らかなように、集落は碁盤の目状に整備されている。フクギがそれの区画に沿って植えられ、全体として規則的なパターンを作り出している。

その基礎となっているのが規則的宅地割である。計画的に整備されたと考えられる集落の形態を、規則的宅地割という。沖縄本島では、規則的宅地割の集落が全体の46%を占める(注1)。規則的宅地割の起源は1737年説が有力であるが、異論も多く定かではない。1737年説の根拠には、土地に関する私有制から定期地割制への移行(1737)による宅地の規制、薩摩侵入後の第二回検地(1737-50)による農地制度の改革、等が挙げられている。

(注1)坂本磐雄 1989『沖縄の集落景観』九州大学出版会

2.森林景観を支える背景

2-1.集落の歴史

集落形成の年代は比較的古く、1609年にまで遡る。

それ以降で歴史的に重要な出来事は、1737年の土地制度の変化、第二次世界大戦、1975年の海洋博覧会、が挙げられる。

1737年の土地制度の変化は、現在の碁盤目状集落の基礎となった出来事である。第二次世界大戦では沖縄本島が甚大な被害を受けたが、集落が全疎開した備瀬も同様であった。だが、焼き払い等によるフクギの被害は、現状観察や地域の人の話の限り、あまり無かったようだ。1975年の海洋博覧会開催は、集落に雇用をもたらした他、備瀬が観光地として注目される契機となった。

表3.備瀬の略年表(注3)

西暦 事項
1609 集落が形成される
1666〜1675 羽地朝秀の執政
1668 備瀬村から小浜村が分離する
18C初頭 王府指導による備瀬の集住形式の変化
1728〜52 具志堅蔡温の執政
1737 定期地割制への移行、薩摩による検地
1903(明治36) 備瀬村に小浜村が統合される
1933(昭和8) 中道(集落の中央道路)の拡張によりフクギ伐採が行われる
1941(昭和16) 行政区画整理が行われる
戦時中 空爆被害、道路拡張等によりフクギを部分的に損なう
戦後 戦災復興のため新建材が必要となりフクギが大部分伐採される
1969(昭和44) 北部地域全電化によりフクギ伐採が行われる
1975(昭和50) 海洋博覧会開催
1983(昭和58) 沖縄自然百選にフクギ屋敷が入選
1987(昭和62) リゾート法施行

(注3)仲田栄松 1984 『備瀬史』

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2-2.住民との関係

備瀬地区の住民から伺うことができた調査に関係する事柄を、各項目に分けて紹介する。

(1)手入れ、掃除

昔は若者が多く、掃除は彼らの仕事だったようだ。しかし、現在では高齢化が進み、各家の人々が自宅周りを掃除している。集落にはゴミがほとんど落ちておらず、手入れの行き届いた集落である。

・自宅前の落ち葉や実の掃除は毎朝する。

・枝の剪定は必要ないのであまりしない。

・空き地の掃除は地域全体で年に数回ほど行う。

・昔は早朝子供が集まって掃除する習慣があった。

(2)フクギの利用

フクギの利用は多少見られるが、それほど多くない。建材利用も稀である。

・染料として利用。

・建材として利用。一年ほど浜辺の砂に埋めて虫除けをする。

(3)フクギ屋敷林への意識

以下のような意見が出たが、全体として見ると概ね住民のフクギ屋敷林に対する意識は良好であった。

(良い意見)

・他に誇れる財産である。

・屋敷林としての機能は現在でも重要。特に飛塩対策に有効。

・今後も残していくべき。

・観光資源として活用したい。

(悪い意見)

・蚊が発生する原因になる。

・観光客が増えて、生活がのぞかれてしまう。

・実の悪臭がひどい。

(4)備瀬の観光地化について

観光地化は、人や収入の増加につながるので良いと考える人が多い。だが一方で、自分の生活が覗かれるのが嫌だとして反対する人も存在する。

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2-4.行政との関わり

備瀬集落を景観モデル地区にしようという動きがあり、町役場と住民の間で勉強会、協議会が行われている。

最初に各関係者が接点を持ったシマづくりゆんたく会議では、住民が集落を歩いて良し悪しを探し、コンサルタントが参加したワークショップを行った。数年挟み開かれた琉球歴史回廊・備瀬集落地元懇談会は、備瀬区の住民、町や県といった行政、コンサルタントから構成され、現状認識や地区の将来像等を総合的に検討している。そして、前者を引き継ぐ形で備瀬地区フクギ並木街並み環境整備事業協議会が開かれ、フクギ保全のルール作りや電線地中化案の検討等、今後に向けた具体的な議論を行っている。協議会では、大分県を訪問し、景観計画の勉強会と現地視察を実施した。備瀬集落の案内マップの作成、フクギ並木の散策コースの整備等がなされ、独自の景観を生かした観光資源作りへの意識は高い。

表4.景観モデル地区指定に関する動向

年.月 事項
平成12 沖縄県土木建築部都市計画課による沖縄県景観形成モデル地区詳細調査、地元説明会
平成12 モデル地区に関する研究会が発足
平成12.6 第1回シマづくりゆんたく会議
平成12.8 第2回シマづくりゆんたく会議
平成17.10 琉球歴史回廊・備瀬集落第1回地元懇談会
平成17.11 琉球歴史回廊・備瀬集落第2回地元懇談会
平成18.2 琉球歴史回廊・備瀬集落第3回地元懇談会
平成18.10 備瀬地区フクギ並木集落街並み環境整備事業協議会第1回勉強会
平成18.11 備瀬地区フクギ並木集落街並み環境整備事業協議会第2回勉強会
平成18.12 備瀬地区フクギ並木集落街並み環境整備事業協議会第3回勉強会
平成19.3 備瀬地区フクギ並木集落街並み環境整備事業協議会の見学会開催(大分)
平成19 備瀬地区フクギ並木集落街並み環境整備事業協議会第4回勉強会

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2-5.その他

風水

備瀬は風水思想に基づいた集落とも考えられる、とされる(注2)。琉球王国では、17〜18世紀にかけて住宅や集落の造成、山林の管理等に風水が、国策として応用された。ゆえに風水師は村落形成に大きな影響力を持ち、屋敷にフクギを植えるよう指導した記録も残っている。王府は、特に海岸域から里山にかけての森づくりに力を入れた。

風水では「気」が散逸しないよう山地、村落、屋敷が森や地形に囲まれている状態を「抱護」といい、琉球では、風水的土地利用として、海岸域の浜抱護、集落やその外周の村抱護の二つがあった。備瀬のフクギ屋敷林は、しっかりと集落、家を囲っており、「抱護」の概念に基づいて形成された風水景観と考えられるのである。

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図13.風水景観の模式図

その他習俗

今回の調査ではその他習俗に関する話も若干ながら聞けた。フクギが多く残っている要因との関係が示唆される。

・フクギは切るなという先祖の教え

・親の代までは非常に先祖を大事にした

・備瀬はシジ高い(神様が高い)土地である

・山の上と離れ小島が神聖な土地であり、備瀬は両者に挟まれた特別な場所にある

(注2)仲間勇栄、菊地香 2003「島嶼環境域における屋敷防風林の意義と地域住民の意識-沖縄県本部町備瀬集落を事例にして-」

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3.基礎情報

3-1.地形の特徴

地形は大きく山地と台地に分かれる。山地は本部石灰岩からなる地塁で、標高300m以内の乙羽岳に連なる山地と八重岳の山地からなる。満名川がその間を流れて海に向かう。乙羽岳の西側が琉球石灰岩からなり、円錐カルスト地帯である。この裾から北西端の備瀬一帯にかけて標高70m以下の広い段丘が続く。瀬底島や水納島、本島海岸では、原生造礁サンゴが美しい裾礁をつくっている。

(「太陽と海と緑―観光文化のまち 沖縄県本部町 2006年町勢要覧」 )

3-2.本部町の気象

本部町は平均気温が23.4℃、年間の降水量が2,000ミリを超す温暖な地域である。気温の年較差が小さく、四季の変化も小さい。台風銀座と呼ばれるほど台風の接近がかなり多く、春先には温帯低気圧が発生しやすいので、春・秋の降水が多い。

下図は本部町に近い、名護市の降水量と気温のデータである。

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図14.名護の降水量と気温

3-3.本部町の風向き

大別すると、冬期は北寄りの風が吹き、夏期は南寄りの風が吹く。7,9月は時折、南寄りのかなり強い風が吹く。防風林として考えた場合、この夏の南寄りの特別に強い風から家屋などを守ることが重要な役目となる。

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図15.名護の風向きと風速

3-4.地目別面積割合

下図は本部町の地目別面積の割合である。原野が多く、次に畑が多い。宅地は6%に留まっている。

地目

図16.本部町の地目別面積

3-5.人口

本部町の人口は14,351人(男7,214人、女7,137人)、世帯数は5,796世帯にのぼる。なお、今回調査対象とした本部町備瀬地区の人口は570人(男285人、女285人)、世帯数は263世帯である。

備瀬人口

図17.備瀬の世帯数と人口

3-6.就業人口別割合

2005年の国勢調査によると、本部町の就業人口は5,975人(男3,411人、女2,564人)で、主な就業分野はサービス業(44%)、卸・小売業(15%)、建設業(14%)、農業(12%)である。

就業人口別割合

図18.本部町の産業別就業人口

3-7.農産物生産の概況

花卉を中心にサトウキビ、柑橘類、キャベツなどの生産が盛んである。最近はゴーヤーやマンゴー、アセロラなどの作物にも期待が寄せられ農業環境の整備に力を入れているという。水産業では、町のシンボルでもあるカツオの漁従業者の高齢化など後継者育成が急がれる一方、獲る漁業から育てる漁業への移行を図り、もずくや海ぶどうなどの産地形成を目指している。

(「太陽と海と緑―観光文化のまち 沖縄県本部町 2006年町勢要覧」より一部引用)

農産物

図19.本部町の個別農産物粗生産額

3-8.植生と林業

林相別の割合は、針葉樹林が約10%、残る90%はイタジイ・オキナワウラジロガシ・イスノキ・ヒメツバキ・モチノキ類を主体とする広葉樹林である。沖縄は林木の生育に適した気候条件下にあるが、過去における過伐と計画的な資源造成の遅れなどにより、全般的に森林は荒廃している

3-9.観光

沖縄県への入域者は年々増加しており、550万人を超えた。2002年11月に海洋博公園内に沖縄ちゅら海水族館がオープンしたことに伴い、2003年から海洋博公園への入域者が大幅に増加したものと考えられる。

本部町への入域者はデータがないので断言できないが、本部町への宿泊者も少しずつながら増加してきていることからも、かなり増加してきているものと推察される

観光

図20.観光入域者

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参考資料:仲田栄松『備瀬史』、坂本磐雄『沖縄の集落景観』、「太陽と海と緑―観光文化のまち 沖縄県本部町 2006年町勢要覧」、気象庁HP等

2007年 玉那覇綾子、長谷川学、山田千紘、菊池雄介

対象地現地調査:2007年6月14日〜17日

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published on 2008-3-26
©2008 Laboratory of Forest Landscape Planning and Design
東京大学大学院 農学生命科学研究科 森林科学専攻 森林風致計画学研究室