愛媛県上浮穴郡久万町

はじめに

今回対象地として久万林業を取り上げた理由としては、久万から新しいものが多く出ていることがあげられる。例えば、全国に先駆けて育林技術体系を作成し、優良木材生産のためそれまで一部の林業家でしか行っていなかった枝打ち作業の普及に努めたり、残念な形で終わってしまったが、林業振興のために

ところで、久万林業地は久万町のみを指すことと、近隣の小田町・面河村・美川村・柳谷村を含む上浮穴郡一帯を指すことがある。しかし、久万林業地におこった様々な動きは久万町を中心として起こっており、また実質2日間という短い時間であったため、今回の現地調査は久万町を中心に行った。

本報告書では、まず久万町の概要を、次に森林景観に強く関係している久万町の林業の歴史およびその施業についてまとめる。そして実際の森林景観の特徴を記し、最後に複層林の景観的特徴を記す。

1.地域の状況と基礎情報

(1)地域の概況

【立地】

久万林業地は愛媛県中南部に位置する上浮穴郡2町3村一帯(久万町、小田町、美川村、面河村、柳谷村)の林業地を指す場合と上浮穴郡久万町のみを指す場合がある。

上浮穴郡は四国山脈石鎚山系の山岳に囲まれて小盆地を形成している。地区のほぼ中央を久万川、面河川、黒川が貫流し、高知県を経て太平洋へ流入している。総面積は72417ha、うち森林面積は63900ha、林野率83.3%を占める農山村地帯である。(1970年当時)

本報告書では対象とする久万町は、標高300〜1271mの間に所在し、松山市から車で1時間足らずの距離にある。四国山脈に連なる5つの峰に囲まれた山麓の4つの盆地からなっており、総面積は16492haである。

【自然の概況】

1.気象

久万町の年平均気温は13.4℃、最低気温マイナス8.5℃、最高気温39.5℃を記録している。このため、冬は寒冷であるが、夏は涼しく、四国の軽井沢と言われるほどである。年平均降水量は約2300mm。積雪量は平年30cm前後であるが、最高では3mに達することもある。

2.地質

久万町の地質は、北側に石鎚層群の安山岩層群の砂礫岩が分布し、面積のおよそ50%を占めている。南側には、緑色・黒色片岩からなる長瀞変成岩が分布している。

3.植生

久万町の森林面積は総面積の86%を占める14,000haで、うち13,000ha(森林面積の95%)が民有林である。人工林は11400haあり、うち69%がスギで、ヒノキは30%を占め広葉樹はほとんどない。総じて、地味肥沃で雨量にも恵まれていることから、スギ・ヒノキの生育に適した林業地帯である。

【社会・経済の概況】

1.人口

久万町の人口は、7890人(1995年)である。しかし、図のように他の山村地域同様、人口は減少を続け、65歳以上の老齢人口の割合は増加している。

2.産業

HPで

(2)基礎情報

【地形図】

【地質図】

【植生図】

【施業・管理計画関連図】

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2.景観の特徴

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3.景観の管理と形成

(1)久万林業の形成史

ⅰ)江戸期における久万地方

江戸時代初期の久万地方は、多量の森林資源と豊穣な耕地に恵まれ、米や雑穀など農産物が豊富に取れ、7300石くらいの収穫があったようである。徳川幕府の年貢の取立てが厳しかったため、当時の久万山の食生活は、とうもろこしと麦を主食として、米は盆と正月に限られ、住居も萱ぶきで、衣食住がほとんど自給自足の質素なものであった。こうした生活は明治から大正時代まで続いていたようである。

江戸時代の久万地方の山林、特に上畑野川西ノ浦の山林は藩用材の調達用地で、産出される材は、城普請材や町家の建築用材として既にその優秀さが認められていたようである。文禄年間(1592-1595)の地頭、佃次郎兵衛十成は久万の産業を起こす数々の善政を行い、各社寺への寄進、造営を行っていた。森林の重要性についても定見を持ち、植林を励行したと言われ、それが久万地方の造林の始まりだったと思われる。松山藩は、御林山として、畑野川流域の遅越山、新開山を中心に囚人や百姓を使って大面積にわたる造林を行い、歴代松山藩主は御林山に御山奉行を置き、山林の管理と林地の利用に深い関心を払っていた。また、畑野川流域の民有林には、藩政時代に植林されたスギ林分が残っており、民間でも古くから植林が行われていたことがうかがわれる。しかし、当時の植林は御林山など部分的なもので、久万地方全体に広がることはなかった。それは、江戸時代には一般の木材需要は少なく、また交通の便の悪い久万地方で植林を行ったとしても商品化が難しく、住民は大きな関心を寄せなかったのである。さらに当時の林野は、農耕用の草刈場など生活資材を採取する場として重要な役割を果たしており、零細農民には長期に及ぶ造林を行う余裕はとてもなかったのである。

そして、慶応3年(1867)徳川慶喜が大政奉還し、明治維新となった。明治2年(1868)には版籍奉還が行われ、諸制度の変革が急速に進んだ。遅越山、新開山、行長山などの藩有林はすべて国有林に移行されることとなった。

ⅱ)明治期における久万地方(→ⅴで詳述)

明治期になっても植林の状況に大きな変化はなかったが、明治5年(1871)井部栄範が大宝寺第16代住職木島堅洲を慕い門弟として、久万地方を訪れ、大宝寺の執事に就任した後、還俗して本格的に植林を展開するにいたって状況は大きく変わることとなる。

栄範が植林を起こす動機となったのは、執事として財政を切り回していた大宝寺の寺録が明治維新により廃止されたために、財政的に寺の維持が難しくなっていたこと、また明治7年(1873)に火災に遭い、寺が全山消失したこと、明治維新により様々な新政策が断行され住民に動揺が広がるなど、疲弊した久万地方の産業振興を図り、住民の暮らしを少しでも豊かにしようということ、などであった。栄範はこうした考えのもと、明治6年(1872)に初めてスギ苗3000本の植林を行った。しかし、当時の久万地方の山野のほとんどは、前述のように農耕用の草刈場や、萱刈場、焼畑として利用されており、樹木を育成できる状況ではなかった。それゆえ、植林を行うにしても、苗木の入手から植林の仕方についても予備知識に乏しく、最初は手探り状態であった。栄範は「自らを利すれば、他をも利す」という考えのもとに、自ら植林を行うだけでなく、地元民にも植林の有効性を啓蒙し奨励した。明治12年(1878)に戸長に就任した栄範は、早速一般村民に植林を普及するため、明治12、13年(1878、1879)の村会で村内全戸杉苗一ヵ年200本宛の植林を決議し、苗木のない者には無償貸与を行い、植付地のない者には村共有山の借地ができる措置を取るなど、全村的に植林を普及奨励した。植付を始めた当初の苗木は、吉野や広島から年間数万本も購入していた。また植林法も「利財主義」の立場から、林業先進地吉野をモデルに密植方式を採用していた。

一方、一般村民の植林の展開状況については記録がないので明らかではないが、必ずしも栄範の計画通りには進展しなかったようである。しかし、栄範とともに村民の植林指導に当たった中野村(現久万町中野村)の秋本半次郎は、越の峠から東の地区を受け持ち、菅生の村持山150haを借地し、それを地元住民に分割貸与し計画的に植林を進めたと伝えられており、菅生村を中心に漸次隣接の明神村や川瀬村方面へ植林を拡大していった模様である。

植林が軌道に乗ってきた明治20年代には、栄範の植林は年間10万本にも上っていた。一方、村民の植林も徐々に広まり、苗木の需要が増大してきたために、村内で苗木の養成を行うようになり、明治42年(1909)頃には、村内6ヶ所の苗畑でスギ・ヒノキ・マツなどの山行苗25万本、小苗37万本を生産したという。

明治後期、日露戦争(明治37-38年、1904-1905)の後、全国的に植林熱が高揚したのであるが、栄範の植林事業も苗木の自給体制が取れるようになり、加速度的に規模が拡大したようで、晩年の明治40年(1907)から大正3年(1914)までの8年間には134万本の植林を行い、合わせて500haの植林地を造成した。栄範は生涯で400万本の植林を行い、久万林業の基礎を築いた(表○○)。

ⅲ)大正期から第二次大戦まで

ⅳ)第二次大戦以降

ⅴ)大宝寺と井部栄範の造林事業

ここでは、久万林業の基礎を築いた井部栄範、ならびに大宝寺について詳述したい。

1.大宝寺

菅生山大宝寺は、大宝元年(701)年、文武天皇の代に勅願により大宝の年号を取り創建された古刹で、平安時代には弘法大使の四国霊場開創に際し、第44番の札所となっている。前述の佃次郎兵衛十成は大宝寺再興のため26石を寄進した。また、中興の主、第4代住職、成秀方丈は、寛保元年(1741)に発生した久万山騒動の際、松山藩の懇請により、騒ぎを鎮撫し功績から150万石の寺録が与えられ、国守の祈願所となったので寺は再興した(※久万山騒動:享保の大飢饉の9年後に当たり、過酷な課税に耐えかねた農民2800名が大州藩へ逃散した事件)。

2.井部栄範の造林の契機

井部栄範は前述のように木島堅洲の門弟として、明治5年(1871)に菅生山を訪れた。当時30歳であった。そして執事として寺の財政を預かるようになったが、当時の大宝寺は明治維新で寺録を廃止され、財政は困窮していた。大宝寺では、第14代鎫州の時、寺所有の杉山を伐採し廃絶を救済したことがあり、そうした先人の経験にヒントを得た栄範は、「寺百年の計は植林に如かず」という考えを持って木島堅洲に進言して、明治6年(1872)には早速大宝寺と自己所有地にスギの植林を開始した。しかし、明治7年(1873)に大宝寺が火災に遭いほぼ全焼した。栄範は「大宝寺再興のため、地方の産業開発のため、その基をなすものは山をいかすにあり、これは僧侶の片手間ではなすべくもない」と決心し、還俗(僧籍を離れ俗人になること)し、大宝寺の山林経営を担当しながら、自らも植林事業や農地経営などに専念することになった。その一方で、地元民にも植林の有利なことを熱心に説いていた。

3.造林地の取得と資金調達

栄範が植林に着手した時、手元にあった資金はわずか377円と大宝寺より委託された若干の資金にすぎなかった。このわずかな事業資金を元にして一代で500ha400万本もの大植林を行うことができたのは並大抵のことではないと思われる。というのも明治期のように経済的にゆとりのない時代には、林地を持つ者でさえ植林を行うのは相当困難であった。まして植付地のない者は林地の取得から始めなければならないので栄範の場合はいっそう困難であったと思われる。ところで、栄範早くからその人望と才覚を見込まれ多くの公職に選任された。明治11年(1877)には、郡区町村編成法の発令に際し組頭に推薦され、明治12年(1878)には、菅生村の戸長に選任され、同時に「久万山民積取扱(久万凶荒予備組合世話人)」に当選、また各郡連合会議員に推挙されるなど、30代にして既に社会的にも大きな役割を果たすことになるのである。さらに明治15年(1881)には東京山林共進会で木杯受領、民積監督人になった。明治18年(1884)には、国道松山・高知線改修工事相談役、久万町外三ヶ村勧業委員に任命される。明治19年(1885)には県会議員補欠選挙に当選し、県政にも参画している。このように事業資金蓄積のために多くの公職に就きながら、農地経営や貸金業、精米業、株式投資など、当時としては比較的資金効率の高いあらゆる事業に投資を行い、堅実に利益を上げていたようである。

例えば農地経営は明治14年(1880)頃から毎年数haの農地を取得し、自作や小作を行い、主に換金性の高い米、麦、大豆、小豆、トウモロコシなどを耕作して収益を上げている。時には購入した農地を売却して差益を上げることもあり、必ずしも生産収益のみに依存していたのではなかった。こうした収益は年間600‐1700円にも及んでいたことがわかっている。また、明治13年(1779)には質屋営業を始め、利息から利潤を上げていた。明治26年(1792)には、地方産業振興を目的に有力者と協力して、金融機関久万山融通株式会社を設立し社長に就任、明治34年(1890)には久万銀行に改称し、頭取になっている。さらに資金的余裕があったと思われ、明治20年頃から30年代にかけて、銀行を始め鉄道、製糸、索道会社、国債など証券への投資を積極的に行っており、配当を得ていただけでなく、その証券を担保に銀行借入を行っていた。そして、それを他の事業資金に転用しており、多角的・効率的に資金運用を行っていた。こうした資金調達・再投資により、500ha400万本もの造林を達成したのである。

このように、大宝寺山林の植林事業を進める一方、自らも植林事業を進め久万地方最大の林業家になるとともに久万林業の基礎を築いた。晩年大正3年(1914)には所有山林の経営を目的とした久万造林株式会社を創立し社長に就任したが、その直後73歳で生涯の幕を閉じている。

④地元民への植林の啓蒙・奨励

前述のように、明治12年(1878)に菅生村の戸長に就任した栄範は、全村的に植林を進めるために、村会において村内各戸毎に年間スギ苗200本以上を植付けることを決議し、奨励した。植付地のない者には村内共有山を分割して貸し付けるものとした。また貧困のため苗木のない者には苗木代を貸与、あるいは無償で提供し、誰でも平等に植林の機会を持つように配慮した。この決議は植林の普及に役立っただけでなく、多くの村民が植林の糸口を掴むのに役立った。栄範自身も28haの共有山を借地して植林を行っている。

⑤植林方法

栄範は元々植林に関しては素人であったが、久万地方の気象や地質を研究した上で、少年時代に噂を聞いていた吉野林業に習い、当初は6000‐7000本/ha程の密植を行っていた。使用する苗も最初は吉野から直接購入していたが、輸送に時間を要し、活着率が良くなく、明治12年(1878)頃から、吉野杉の種子を取り寄せ、地元で養苗に着手したが、経験がなく、また寒冷地であったことから失敗が続いたが、明治20年代には育苗も軌道に乗ったようである。

森川源三郎氏の言によれば、天竜林業の植林家金原明善とも交流があったという

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4.現在の久万林業と今後の展望

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5.他の林業地との比較(主に天竜林業地)

久万林業の歴史と施業の特徴

<久万林業の始まり>

現在の久万林業の歴史の始まりは井部栄範の登場である。彼は明治5年30歳の時木島堅州生僧正の門弟として菅生山大宝寺に来た。明治維新の激変により財政難に苦しんでいた大宝寺の危機を、以前の住職が植林していた寺領杉を売却することによって脱した。このことから井部は植林の大切さを悟り、明治6年大宝寺と自分の所有地に杉3,000本を植えた。その後明治14年までに163,000本が植林された。これが久万林業の始まりである。

<育林技術体系>

世界大戦後の混乱期の後、高度経済成長期に入ったことによる農林業と第二次産業との所得格差解消の一環として、昭和39年に林業基本法が制定され林業構造改善事業が全国的に実施された。久万町はいち早く指定され、事業計画策定されることとなった。ところで、久万町はそれ以前の昭和36年、林業の基本問題を検討するため、愛媛大学農学部林学科に2年にわたる林業総合調査を依頼し、林業振興の基本方向を探っていた。その調査結果と、均一なものを大量に供給し久万材の銘柄を高めるという目論見、そして10ha以下の零細規模林家が全体の90%を占めるという久万町の生産構造から、短伐期の優良小丸太生産という基本方針が採用された。それにともない昭和44年に育林技術体系が作成された(昭和63年に改訂)。

育林技術体系の中で景観にとくに関わってくると思われる項目を次の表にしるす。

<現在の久万町の森林の状況>

久万町の森林のほとんどが人工林であることが分かる。また、その人工林のうちスギとヒノキでほとんどを占めていることが分かる。

そして、そのスギとヒノキの人工林について、それらの齢級分布は以下のようになっている。7〜9齢級が多数を占めていることが分かる。育林技術体系において伐期齢を30〜45年を設定していることから、現在久万町の森林の多くが成熟状態であることが分かる。

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森林景観の特徴

複層林の景観

一斉林においては性質の似たものが同じように育っているために、その景観はテクスチャーの整ったパターン模様をなしている。しかし、複層林においては樹齢にばらつきがあり、

景観も異なったものになる。

●久万町の複層林施業

久万地方の複層林施業は大正中期頃から一部の林業家では始まっていた。それは自宅を新築する際に内装用材を生産する為に大径材を保存木として残し、空き地に苗木を植栽したものだった。昭和30年代に入り、比較的高齢級の林分での間伐を繰り返し、残った木を上木として優良大径材生産を目指し、下層に苗木を植栽して形質の良い小丸太を生産する目標で積極的に複層林の造成が行われ、昭和40年代に入り次第に地域に波及していった。

●複層林施業の問題点

久万町の篤林家で、久万町の林業の発展に親子2代で関わっている岡信一氏があげている問題点を記しておく。

  • 1. 施業が集約になる。
  • 2. 上層木の伐採によって下層木に伐倒による被害が出る。
  • 3. 伐採経費が高くなるため、林道、作業道網の整備が不可欠。(久万町では林内作業車路網は250m/ha以上が望ましい)
  • ④ 下層木の形状比が高くなりやすい。
  • ⑤ 上層木の急激な疎開は上層木が孤立するため台風などの被害を受けやすい。
  • ⑥ 上層木の不定芽が発生しやすい。
  • ⑦ 1.に関連して集約な施業のため、地理的、地位的条件に制約がある。
  • ⑧ 不適切な施業により林内照度が低下することで、下層木の成長不足ひいては衰弱枯死につながる。また、過密により林床植生の消失、表土の流亡など複層林としての形が維持できなくなる。
  • ⑨ 複層林の形を作ることはそれほど難しいことはないが、経営目的が明確になっていない場合、それ以後の施業が適切荷行われなくなり失敗する恐れがある。

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2002年 重根克彦、水野茜、千木良泰彦

現地調査日程 2002年12月日〜日

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published on 2008-3-26
©2008 Laboratory of Forest Landscape Planning and Design
東京大学大学院 農学生命科学研究科 森林科学専攻 森林風致計画学研究室